安保法制は何を残したか?

限定的な集団的自衛権の行使が憲法違反であるという主張は、未だに説得力のある明快な説明を伴わないでいます。それにもかかわらず、まるで憲法に集団的自衛権の行使を禁ずる規定があるかのように憲法違反であると断言している人もいます。

 

かつて政府によって示された47年見解が集団的自衛権による武力の行使を憲法違反であるとしていたとしても、それは当時及びそれ以前の政治的な配慮あるいは思惑の影響を受けて示された「政府の見解」に過ぎません。

 

その見解は長年維持されてはいても、国民に受け入れていたとも言えない程度のものでした。ところが、その過去の政府の見解が、憲法の条文を上書きするような形で、憲法の規定であるかのように扱われてしまっているのです。

 

改めて注目したいのは、集団的自衛権の行使が憲法で明らかに禁じられているかのように思わせる作為的な宣伝が、学者らの権威を利用するなどして行われた点です。

主な新聞やテレビでは、法案における限定的な集団的自衛権の行使が憲法に違反していると「憲法学者のほとんど」が判断していると伝えられていました。

 

しかし、そもそも憲法学者の多数決で違憲か合憲かが決まるわけではありませんが、その質問をしたアンケートで憲法学者の7割(※)は自衛隊の存在も憲法に違反していると答えています。

※ 報道ステーションが憲法判例百選の執筆者に対して行ったアンケートに回答した憲法学者のうち、現在の自衛隊の存在が憲法に違反しているかを質問している朝日新聞が行った憲法学者らに対するアンケートに実名で答えた者の回答を集計した。

 

この、自衛隊が憲法に違反するという判断は、「個別的自衛権による場合であっても武力の行使は憲法に違反する」という考え方と重なります。

そのように考える憲法学者が今回の法案を憲法に違反すると考えるのは、自衛隊を憲法違反と判断する立場から当然のことだと言えますし、その立場においては、集団的自衛権は認められないとする47年見解も受け入れられていないはずです。

集団的自衛権のみが憲法に違反すると、憲法学者の多数が考えているかのように伝えることは不適切であったわけです。

 

そもそも日本が憲法で戦争を放棄したのは、パリ不戦条約によって侵略戦争が非合法化された後にあった第二次世界大戦の教訓からです。

しかし、太平洋において日本は、おそらく集団的自衛権によって戦争を始めたわけではありません。大陸においては、軍の謀略によって満州事変が始まっています。

その教訓の下にある憲法が、国際紛争を解決する手段としての戦争と集団的自衛権の行使のみを禁じていると解釈するのは不自然ですし、個別と集団を区別していない第二章の条文ともかけ離れています。

 

つまり立憲主義を掲げていようと、自衛戦争を合憲であるとか、違憲性を問わないとするのは「憲法に違反していることも必要であると思われるならば認めて良い」とすることであって、正に憲法を蔑ろにすることに他ならないのです。

また、憲法は政府のみならず時々の国民をも拘束しています。世論が認めるのならば違反しても構わないというものでも当然ありません。

 

法案の審議では、集団的自衛権による武力の行使が「存立危機事態」に限定されるために、個別的自衛権の行使となり得ないケースが実際には想定され難いことが「法律を作るべき理由(立法事実)がない」との批判を生んでいました。つまり、その点については、それほど大きな変化があったとは言えません。

 

ところが反対論は、政権側が示した例については個別的自衛権で対処できると指摘し、従来は議論の対象でしかなかった敵基地攻撃を容認し、自衛戦争を認めるかのような変化を生じさせてしまいました。

集団的自衛権が憲法に違反すると言い、又はその主張を強調するためか、憲法学者の多くが自衛隊を憲法違反であるとしている点は隠されていました。過去の政府見解が持つ曖昧さも隠され、個別的自衛権を無制限に認めるかのような言葉が飛び交っていたのです。

そこには、今回の法案によって限定的な集団的自衛権の行使を認めることよりも大きな変質があったと思います。

 

集団的自衛権は憲法違反であるというマスメディアの報道、そこに登場する少数の憲法学者、さらに多数の野党議員が、自衛隊や個別的自衛権は憲法に違反せず、容認されるとの考え方を示していました。

彼らは、その根拠を十分に説明していたでしょうか。同じ主張を掲げて立憲主義を唱えていた市民団体やデモの参加者、そして視聴者である国民は、適切な情報を得ることができていたでしょうか。

 

権威と市民

この間の事態を見ると、社会は学界と市民の関係を検討する必要があるように思います。

通常、ほとんどの人は自ら熟考することはなく、受け取る言論のいずれかを選択することによって意見を持ち、その集合によって世論が形成されます。それはマスメディアから受け取る情報の量やレッテル、発話者の権威に影響されてしまいます。

 

今回、法案に反対する人々は、学者の権威を受け入れ、立憲主義を唱え、憲法学者を拠り所にして憲法違反を訴えていました。しかし、それは封建的で、市民による自由な意見の表明や議論を妨げ、又は隠してしまったように思います。

このように、学者の権威や学術上の用語が市民のコミュニケーションを難しくすることは珍しくはありませんが、今回は学術用語や反知性主義といった言葉が政権に批判的なコミュニティにおいて流行し、顕著に見られました。

 

さらに注意するべきは、市民のみならず議員までもが憲法学者の威を借りて憲法違反と叫び、自らが立法府のメンバーとして憲法をどのように解釈し、判断しているのかを示していなかった点です。

端的に言えば、学者といった権威や憲法学者のほとんどといった数の論理が民主主義を自称していました。しかも、先に示した通り、憲法学者の多くは自衛隊についても違憲性を指摘しています。学者の権威すらも歪曲されていたのです。

 

デモは民主主義か?

デモは日本語で示威行為と訳されるデモンストレーションの略で、デモクラシーの略ではありませんが、デモと民主主義が関連付けて扱われることも多くあります。

独裁国家では制限していることが多いので、映像的に捉えることのできるデモは、民主主義体制を宣伝する象徴的な材料になっています。しかしそれは、デモと民主主義が対立しないことを示すものではありません。

 

デモの内容や形態は様々で、利益団体が政治を動かす方法の一つとして行うこともあれば、国家や政党などの組織がデモをして民衆を扇動することもあります。

ヘイトスピーチのように肯定できないものもあります。ナチ党もデモをし、集会を警備する準軍事組織の突撃隊が行進し、シンボルを掲げ、若者の支持を得ていました。

 

国会前などでの継続的なデモは、圧力によって政策を変更させようとするもので、これは政治献金により政策に影響を与えようとすることに似た行為と言えます。

日本の業界団体は献金や選挙応援をすることで利益誘導を試みますが、外国では農畜産業の団体がトラクターで行進したり、政府機関の玄関前に迷惑な土産物を残したりするデモもしばしば行われています。

 

しかし、デモの参加者は国民を代表してはいないので、このような圧力は代議制民主主義と対立し、民主主義を歪めてしまうおそれがあります。本来は、国会に国民社会が投影され、いかなる圧力をも受けない自由な討論と表決が、民主主義を達成する手だてになるからです。

実際には代議制の理想的な姿が現在の国会にあるとは言えませんが、その是正を求めるものでもないのに圧力をかける側が民主主義を掲げることには矛盾があると言えるでしょう。

 

一方、民衆に対する言論の手段としてのデモは、代議制民主主義とも対立しません。しかし、その内容は様々で、しばしば扇動的になります。

総理大臣を批判することは当然の権利ですが、反安保法制のデモで用いられていた「アベを許さない」と書かれた紙が扇動的であったことは否定できません。

制作者らに「大衆を操るには憎悪を掻き立てるのが唯一有効な手段だ」といった認識があったかは分かりませんが、近年では抵抗勢力や官僚を憎悪の対象にして国民を扇動することもしばしば行われており、その手法の危うさは認識する必要があるでしょう。

 

また、かつては出版などの手段を持たない市民が意見を示すために欠くことのできない手段であったとしても、現代の社会にはインターネットがあります。影響力についてはマスメディアに到底対抗できまでんが、市民はSNSやTwitterに意見を示すことができますし、より理性的な議論をすることもできるはずです。

 

今日のデモはマスメディアに取り上げられることによる効果を狙っているのかも知れませんが、実際にはマスメディアはそれを取り上げないこともできますし、批判的に取り上げたり、着色したり、歪曲したりすることもできます。残念ながら市民は、それらに対抗する有効な手段を持っていません。

 

歴史を振り返ると公民権運動のように「有権者ではない人々」が権利を得るためにデモや座り込みなどの行動をとっていました。その最近の例は香港の雨傘革命で、それは行政長官の選出について選挙権を持たない、かつ将来の選挙権が不十分であると認識する人々による「真の普通選挙」を要求するデモでした。

また、2011年にニューヨークで行われたオキュパイウォールストリートも、政治献金によって民主主義を歪めているウォール街と政界に対する抗議でした。

 

しかし、雨傘革命やオキュパイウォールストリートは目立った成果を得ずに排除されています。実際のところ、暴力性の薄いデモが十分な効果を得ることは難しいのでしょう。

非暴力の抵抗として知られている過去の例も、それ自体が全く暴力性を持たないものであったとは言えませんし、その外に完全に暴力的な脅威がありました。

 

今の日本では、おそらく安保法制反対デモに参加した人々を含めてほとんどの人が、国内での暴動やテロを無条件で否定しています。しかし、暴動とデモの線引きは容易ではありません。

例えば、路上でゴミやタイヤを燃やすといった行動は、映像的には暴力的ですが、人に危害を加えるものとは言えません。主張を唱えることは暴力的には見えませんが、大音量で行えば、その対象や近隣の人に苦痛を与えることになります。ヘイトスピーチがそうであるように、内容によって暴力的になることもあります。

 

民衆による暴力が民主主義に必要ないとも言い切れません。独立戦争により独立した国では、その歴史が肯定的に評価されていますし、武装する権利を認めた米国の憲法修正第二条は抵抗権と無関係ではありません。

外国や過去の暴動やテロは否定的に評価されているとは限らず、失政の結果として捉えられることもあります。

 

現代の米国では、警察や司法による不当な扱いの是正を求める黒人らによる動きが暴動や暴力に発展し、是正へ向けた動きを引き出しています。今の黒人は公民権を持ってはいても、少数派で、人種差別的な実態があり、それによって刑務所に収容されている黒人も多いといった事情があります。

 

一方、反安保法制のデモを見ると、おそらく彼らは有権者であって、確かに彼らは民主主義を掲げてはいますが、その主な訴えは選挙制度や政治献金によって民主主義を歪めることに対する抗議ではありませんでした。統治権力が選挙などの基本的なことについて不正をしたものではなく、他の方法をとることが困難であったとも言えません。

 

今回、元気・次世代・改革の3党と与党の合意によって付帯決議が付けられましたが、元気会の政調会長はこれについて、デモなどの反対運動によって為し得た合意である旨の指摘をしています。つまりデモやマスメディアによる圧力は、3党によって政策に影響するものとなったのです。

 

もちろん伝統的にデモを行う権利は言論の自由に含まれます。しかし、純粋な言論とは言えず、暴力性が全くないとは言えません。そして、代議制の民主主義と対立し得ることは、気に留めておく必要があるでしょう。

 

強行採決絶対反対?(ついで)

国会の会期末が近付くと、反対デモは「強行採決」に反対するようになりました。この言葉は市民側から発せられたものでしょうか。

 

そもそも憲法が予定する代議制では、国会で議員が自由意思によって討論し、表決することが期待されます。その代議制を歪めている実態の一つに、政党による党議拘束があります。これは議員の表決、つまり法案に対する賛否が、政党によって決められるものです。

 

今回の反対デモやマスメディアが批判していた数の論理や強行採決といった言葉も党議拘束の産物です。反対デモが真に市民側から発せられたもので、民主主義を要求するものであったとするなら、まずは全ての政党に対して党議拘束を外すことを要求する方がずっと自然であったはずです。

 

 

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