労働所得の格差はどこまで許される?(仮)

世界的な「21世紀の資本論」ブームは格差の議論を取り巻く空気を変えました。その分厚くて高価な本を手に入れてもいませんが、トマ・ピケティ氏は階層間の富の格差、経済成長率を上回る税引き前資本収益率、最富裕層が受け取る資本所得を指摘しているようです。実際の内容はそれらに留まらないようですが、少なくとも日本のマスメディアでは、今のところそう紹介されています。

 

しかし、「富の格差」と「生活レベルの格差」の違いには注意が必要です。金融資産等の富の大半を富裕層が所有しているとしても、生産される商品やサービスの大半は非富裕層が消費しているからです。従って、富裕層の富を抑えても、生活レベルの格差はそれほど解消されません。

 

インフレ率を除いた配当所得で贅沢な生活をしながら、相続税を含めても保有する資産を増やせる世襲型の超富裕層も存在しますが、その人たちの消費は経済全体から見れば大きくはないでしょう。彼らが政治献金等を通じて政治に影響を及ぼすことについては注意しなければなりませんが、生産物の公正な分配を論じるときに主役として扱うことは適切ではないでしょう。

 

労働所得の格差

一方、労働所得の格差は、機会の平等が確保されていれば許容されるという結論に陥りがちです。しかし、この考え方には問題があります。論点をいくつか考えてみましょう。

 

分業制の社会契約

そもそも、私たちの祖先は殆どが田畑を耕して自らが食べる作物を育て、集落の人々の相互の協力によって家を建てたり、維持していました。近現代になって分業化が進み、経済が発展しました。今日の経済的な豊かさは殆ど個人の能力によるものではなく、分業制の成果だと言って良いでしょう。

 

そうであれば、分業制の経済に参加する人々は、何を分担しているか、つまり職種に関係なく、公平な分配を受ける権利を基本的に有していると考えることができます。人々は競争で著しい不公平が生じたり、搾取されたり、貧困に陥る制度を望みはせず、より豊かになることを期待して分業制を受け入れたはずです。従って、分業制には平等な分配を条件とする社会契約が存在する考えることができるはずなのです。

 

教育の機会は全てか?

機会の平等と言ったときには、教育が機会とイコールとして語られます。しかし、実際には遺伝的な違いや就学前、及び就学中の発育環境や健康といった複雑な因子が存在します。そのため、社会的流動性のみに着目した学費の無償化等の措置のみでは、機会の平等は確保されません。

 

また、学校教育は万人に最適な方法で行われてはいません。教育サービスの質は受ける人によって違うのです。従って、教育の無償化等により形式的な機会の平等を満たしている競争条件のもとで顕れた格差を自己責任による帰結とすることはできません。

 

報酬は成果に比例するか?

実際には、労働が生産活動により成果(効用)を生じさせるものとも、労働所得が成果に比例しているとも言い切れません。現代の生産活動は多くが組織的に行われ、企業内では一般に管理職の報酬が高く設定されています。しかし、管理職が成果に貢献しているとは言えません。同様に異なる職種間にある労働所得の格差が成果に比例しているとも言えません。

 

また、収益が成果と対価の交換によって成立していないケースは珍しくありません。例えば、民放の地上波テレビ放送は莫大な効用を視聴者にもたらしていますが、その事業者は効用と比べればとても小さな額を広告企業から受けているだけです。

 

何が格差を決めているか?

労働所得の格差に関しては、非正規労働者の待遇をめぐる「同一労働、同一賃金」というフレーズがよく聞かれます。しかし、このフレーズには「違う労働、違う賃金」が前提にあります。労働者の働きに応じて賃金がいくらか違うことは、怠慢を防いだり、競争を促すために有効であるとしても、「違う職種、違う賃金」を無批判に受け入れて良いのでしょうか。

 

労働所得の格差は市場メカニズムによって調整されると考えられがちですが、実際には雇用の流動性は高くありません。特に高度な専門能力や経験が要求される職種では、その教育期間や資格者数の抑制等が調整を難しくします。

 

労働者に必要な技能レベルを高める過程は文部科学省が所管している学校教育(もとより職能訓練機関ではないとも言いますが)だけではありませんが、実際には職種による賃金の違いが学歴で決まることも多いでしょう。そのため、職種の賃金を教育当局が決めるという、不可解な構図ができてしまいます。

 

職業団体が資格取得の条件を高学歴化(大学卒や修士課程修了を条件に)しようと働きかけることも、職種・資格の階層引き上げを目的としていると考えることができるでしょう。賃金を高くするために障壁を高くするという構図です。

 

スポーツ選手の報酬

一部の芸能人やスポーツ選手は巨額の報酬を受け取ることがあります。その収益モデルは「全国民から1円ずつ貰えば1億円になる」という小学生の皮算用と似たもので、その報酬額は市場の大きさ、人口やコンテンツに興味を持つ人の割合によって全く違う額になります。ところが、経営者等の報酬が妥当かについて論じるときに、芸能人やスポーツ選手の報酬が引き合いに出されることがあります。

 

買い叩ける労働力

労働市場の流動性が高ければ正当な雇用者報酬が導き出されると思う人もいるかも知れません。しかし、流動性が極度に高い労働市場を想定すると、雇用者報酬は労働力の需給バランスによって大きく変動することになります。もし、不況によって一定の失業率があり、買い手市場の状態になっていると、雇用者報酬は際限なく減少することになります。景気の状況によって報酬が変わってしまうのであれば、その仕組みで公正な分配が確保されると言うことはできません。

 

競争の結果は正当か?

教育の機会が平等に保障された社会で、遺伝的な違いによって能力の低い人々があるとき。その人々の能力が低いからという理由で、その人々の労働力を際限なく買い叩くことを公正と言えるのでしょうか。それは異なる人種の人々を奴隷として扱うことと何が違うのでしょうか。

 

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