だれも憲法を読んでいないのか?

NHKスペシャル「どうなる?憲法論議」での細田博之・自由民主党憲法改正推進本部長の発言には驚いた。冒頭、細田本部長は、国会が商法などの法律について「口語化」してきたことを挙げ、文語体の憲法をひらがなにといったことを言い、憲法改正の必要性を訴えたのだ。

 

数年前までの民法や商法には、文語体で書かれた条文が含まれていた。今もいくつかの古い法律の条文は文語体のままだ。例として、公証人法の第二十六条を見てみよう。

 

公証人ハ法令ニ違反シタル事項、無効ノ法律行為及行為能力ノ制限ニ因リテ取消スコトヲ得ヘキ法律行為ニ付証書ヲ作成スルコトヲ得ス

 

文語体の法律とはこのようなものを指し、送り仮名がカタカナで記されていたり、「できる」という意味で「得」が使われていたりするので、一般的に読みやすくはない。これならば、ひらがなにするという話の意味も通る。

 

しかし、そもそも日本国憲法は文語体ではない。国立公文書館のデジタルアーカイブに原本の画像がある。

 

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ご覧の通りだ。旧字体の漢字や歴史的仮名遣いが使われてはいるものの、送り仮名はひらがなで、口語体により書かれている。

 

ツイッターを検索してみると、細田本部長の発言を受けて、口語化に賛成する人や口語化を憲法改正の口実にすることに憤る人など、様々な反応がうかがえる。しかし、憲法がそもそも口語体であることに気付く人は少ないようだ。参考までに有名人のツイートを貼っておく。

 

 

このように、ほとんどの視聴者は、誤った前提に気づかない。これは自然言語によるコミュニケーションの最も深刻な脆弱性の一つだ。前提を操作することは、意図的であるかそうでないかを問わず、よく見られ、極めて有効なのだ。

 

私たちは憲法改正について、主要政党の主張を聞かされている。自由な意思の源泉である言論の自由は制限され、一部は細工された、狭い議論しか見聞きすることができない。そのような国民に、改正案の正否を判断することができるだろうか。主権者としての責任を負わせることができるだろうか。

 

放送された番組は著作権で保護されているので、その映像を引用して批判することは難しい。憲法改正について公人が議論をしている映像が著作権で保護され、国民による批判や検証を阻害し、又は委縮させる。

 

そしておそらく、この誤った前提について、国民が訂正を受けることはない。

 

シン・閣僚が全員死んだらどうなる?

先日、シン・ゴジラがテレビで放送され、閣僚が全員死んでしまったときに発生する憲法問題を指摘するツイートが話題になったようです。

おかげで昨年書いた記事を見つけたくれた人もいました。そこで、前回の記事を補足します。

なお、前回の記事を書いたのはシン・ゴジラが公開される前で、映画とは何の関係もありません。映画の中では総理大臣と半分ほどの閣僚がゴジラにやられて死んでしまいます。

総理大臣が死亡したときには、内閣は総辞職することになりますが、国会が新たな総理大臣を指名するまでは、憲法第70条の規定により引き続き職務にあたります。

補足の前に問題の要点を記します。まず、天皇の国事行為には、内閣による助言と承認が必要です。(自民党の憲法改正草案でも進言が必要なので同じ)このため、国会の閉会中に総理大臣を含むすべての閣僚が死亡すると

  1. 国事行為である国会の召集ができません。
  2. 国会が召集されなければ、新たな総理大臣を指名できません。
  3. 国事行為である総選挙の施行を公示することもできないので、6年以内にすべての国会議員の任期が切れ、国会議員がいなくなります。

さらに、前回は軽く触れた程度でしたが、裁判所に属する司法権も失われることになります。下級裁判所の裁判官は、内閣が再任しなければ10年で失職します。

10年以内にすべての下級裁判所の裁判官の任期が切れ、おそらくそれよりも早い時期に、最高裁判所の裁判官は定年により退官します。裁判官がいなくなれば、令状の発行も裁判も行えなくなります。

補足1

これに関連しますが、はじめに補足する点は、行政行為の正当性についての問題です。第65条には、国の行政権は内閣に属するとあり、すべての国の行政は、その下に行われます。

そのため、内閣や第71条による職務執行内閣が存在しないときに、各行政機関による行政行為が認められるのかという問題が生じるかもしれません。

まだ裁判官が存在する時点でも、検察官の行為が認められなければ、起訴どころか送検もできなくなります。すなわち、次の補足で説明する場合で逮捕された者についてさえ、警察署で2日間拘置した後は、お帰り頂くことになります。

補足2

次の補足は、すべての閣僚が死んでしまう原因についてです。ゴジラにやられた場合も検討するべきかもしれませんが、それよりも可能性が高そうな、テロやクーデターによる場合です。

日本では総理官邸が反乱軍に襲撃される事件が、少なくとも戦前に2回、戦中に1回ありました。戦前の事件では、官邸で犬養毅首相らが殺害されたほか、私邸を襲われて殺害された閣僚もいました。

これらの事件は、外から官邸や私邸に侵入した軍人によって行われましたが、閣議のときに閣僚ら内部の者によって行われるおそれもあります。

すべての閣僚が死んでしまったとき、天皇は、憲法の規定に反することになっても国会を召集するかもしれません。それは憲法が定める手続きに反することにはなりますが、自然災害や一般的な戦争による場合ならば、実際の影響はないでしょう。その手続きを、社会が静かに受け入れるからです。

しかし、ある程度の国民からの支持があるテロ、クーデター、軍事介入によるものであるときには、憲法の停止や再制定の要求に正当性を与え、実際に影響することも想定しなければなりません。

補足3

最後の補足は、前回の話を覆すことになるかもしれませんが、国会が召集されても、又は開会中であっても、すべての閣僚が死んでしまったら、新たな内閣総理大臣を任命することはできないかもしれないという問題です。

内閣総理大臣は、第7条ではなく、第6条により天皇によって任命されますが、第3条は「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」と規定しています。

第6条には「国事に関する行為」という文言はありませんが、その第6条についても国事に関する行為に含まれ、第3条により内閣の助言と承認を必要とするという解釈に基づけば、天皇は内閣総理大臣を任命できません。

つまり、国会が開会中にすべての閣僚が死んでしまった場合も、同様の問題が生じるおそれがあります。

それでも、国会を閉会中にしないことは有効な対策でしょう。衆議院が解散されると、憲法の規定によって閉会しますが、解散と同時に特別国会の召集を決めておけば、総選挙後30日以内に自動的に国会が召集されるようにはできます。

総理大臣の任命についての承認は、新たに任命された内閣総理大臣により組閣された内閣が行えばよいので、足りないのは「助言」だけです。

そして、第6条は、国会の指名に基づいて任命することを要求しているので、「助言がないのに任命する」と「指名があるのに任命しない」のいずれかを避ける必要があります。

おそらく、第6条が国事に関する行為に含まれるとは明記されていないこと、第6条が直接的な規定であること、国会が国の最高機関であること等から、後者を避ける方に理があると言えるでしょう。

余談ですが

これで終わっては新規性とエンタメ性に欠けるので、別の選択肢を検討してみましょう。

NHKの世論調査では「内閣を支持する理由」に「他の内閣より良さそうだから」という理解に苦しむ選択肢があります。その文字の通り、もしも「他の内閣」が存在するならば、1つの内閣が壊滅してしまっても安心です。

憲法を確認してみると、第6条には「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」とあります。ここには唯一のとか、一人のといった制限はありません。

第66条第2項は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定していますが、やはり内閣総理大臣は一人でなければならないとは言っていません。

第67条は前段で「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」と規定していますが、複数の内閣総理大臣を指名することを制限する記述はありません。

国会が内閣総理大臣を指名したときについて、既に内閣総理大臣である者が失職するとの規定も、既にある内閣が総辞職しなければならないという規定も見当たりません。

また、第5章の最初にある第65条は「行政権は、内閣に属する」と規定していますが、内閣が一つであるとは明記されていません。

第4章の最初にある第41条は「国の唯一の立法機関である」と規定しているので、国会は一つです。第6章の最初にある第76条は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」と規定しているので、司法権は複数の主体(裁判所)に属しています。

既に内閣があるのに国会が別の人を内閣総理大臣に指名すると、天皇がその人を内閣総理大臣を任命し、既にある内閣とは別の内閣が組織されます。

これは、バグではなく、たぶん仕様です。

最後に

閣僚が全員死んでしまうと困ったことになるのであれば、憲法を改正するべきだと思う人もいることでしょう。

しかし、前回の記事は全く拡散されませんでした。1年半後、別の方による大ヒット映画にからめたツイートは拡散されましたが、それも国民の多くに知られたわけではないでしょう。

もし、発議された改正案にバグや脆弱性が存在し、それに気づいた人が指摘をしても、その指摘を投票日までに国民が知ることはできないのです。

国民は、パンダの赤ちゃんや芸能人の不倫、政治家の失言、痛ましい犯罪被害者たちの人柄と限られた人たちによる極めて狭い議論から、憲法改正の可否を判断させられることになります。

それでも憲法を改正するべきだと考える皆さんは、どうかその前に国民が判断をするためのインフラを整えるように要求してください。

テレビや新聞が特権的に振る舞うのではない言論の自由、党派対立や政治闘争に陥らず広い視野で熟議をする議会、国民が論点を理解すること妨げるレトリックを排除できる言語と表現、まずはこれらを手に入れてください。

都知事選だから都市の明るい未来を考えよう

ツイッターのタイムラインは地獄絵図のようになっていましたが、都市の未来はそんなんじゃない!(ハズ)というお話です。候補者の演説に倣ってテーマは3つ、交通とエネルギーと景観です。

 

1.都市の交通

はじめに、都市交通の話をしましょう。

 

東京での現下の課題は、通勤ラッシュや通勤時間など負担の軽減です。東京は世界で最も複雑で大規模な鉄道網を持つ都市の一つで、列車が都市交通の主役になっています。しかし、この巨大な都市では、混雑した列車で通勤・帰宅に長い時間を費やすことが当たり前になっています。

実際の候補者の一人は、通勤ラッシュを解消する方法の一つとして、二階建ての電車を例示しているようです。ただ、二階建ての車両では、階段がデッドスペースになってしまい、その数を抑えると乗降時間が延びてしまいます。

そもそも、台車がある部分は二階建てにできないので、乗車定員は1.5倍ほどにしかなりません。ならば10両編成を15両編成にする方が、いくらか現実的に思えます。

 

このように、ついついお馴染みの電車をいかに改善するかと考えてしまいがちですが、そもそも東京での都市交通の主役は、これからも電車であり続けるのでしょうか?

まもなくリオ五輪が始まるブラジルに、クリチバという都市があります。この都市を象徴する交通の主役はBRTです。BRTはバスによる交通システムですが、専用の車線を走ったり、バスの床と停留所のプラットフォームの高さを合わせたり、停留所でチケットの処理をしたりすることで使い勝手や乗降時間を改善しています。

 

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BY:Mariordo (Mario Roberto Duran Ortiz)

 

バスによる都市交通は開発途上国向けと考えてしまいがちですが、東京でも五輪に合わせて湾岸エリアにBRTが導入される予定です。時代はバスです。

列車とバスの基本的な違いを考えてみると、バスには多くのメリットがあることがわかります。列車は大勢の人を一度に運べますが、乗客は不必要な駅に停車することや本数の少なさを我慢しなければいけません。駅から駅までの所要時間と距離から計算した平均速度は、八王子や大宮のような郊外の主要駅から都心の駅までの急行や快速で60km/h前後、地下鉄で30~40km/hと、意外と遅いのです。

 

一方、バスは出発点と到着点が同じ人々というような、小さな需要に対応することができます。上手く運用すれば、それぞれの利用者にとって不必要な停車を省けるのです。それは所要時間を短縮し、乗り心地やエネルギー効率も改善します。出発地や行き先が絞られていれば、乗客の少ない区間で空気を運ぶような無駄も省けます。

 

さらに、意外なことにバスの輸送力は列車よりも大きく、さらに高度な自動運転技術を使って車間距離を縮めたり、連接バスを使ったりすれば、さらに大きな輸送力を得ることもできます。

 

自動運転の技術は、列車と比べて「多くの運転員が必要になる」というバスの弱点を解消し、低遅延で、高速で、長い時間待たなくても乗れる交通システムを可能にするでしょう。

それは自動運転技術の進歩によって、近い将来、既存の高速道路に導入することもできるようになるでしょう。都市高速道路から乗り換え駅への専用線や停留所を整備するだけで、新しい交通インフラを誕生させることができるのです。

 

さらにBRTが電車にみられる運用上の仕組みを取り入れたように、電気を使いレールの上を走るといった電車のエコロジカルな特徴を取り入れた交通システムができれば、東京は大きな課題を一つ解決することができるのです。

 

付け足し:東京には代用地の確保が難しいこともあって、高架化・地下化ができていない鉄道路線が複数あります。バスはレールの上を走らないので、既存の路線で運行させたまま、開削工法でレベルを下げてくことも可能かも知れません。

 

2.都市のエネルギー

 

近年は猛暑日の日数も増え、真夏の東京は多くの人にとって快適ではありません。2020年の東京五輪もそのような時期に行われる予定です。都市に冷房を付けることはできないのでしょうか?

 

まず簡単な方法をご紹介します。東京の近くには海があります。東京湾のすぐそばには千メートルを超える深い海深があります。海水の温度は深いほど冷たいので、東京のすぐそばには冷たい、10℃以下の海水が無尽蔵にあるのです。

 

その海水をパイプラインで持ってきて、高速道路の高架下に大きなラジエーターを設置すれば…じゃーん!東京水冷システム完成!!

 

これでゲリラ豪雨も軽減されるはず!

 

でも、この方法では問題が多すぎます。まず海水を地上に持ってきてはいけません。それに、冷たい海水を生ぬるくして戻してしまうのが、海洋の温暖化対策的にNGです。排ガスで汚れた空気が冷やされて生活圏に滞留してしまいます。東京の耐えがたい夏は1~2ヶ月なので、コスパが悪そうです。

 

次はもっと未来的な方法をご紹介します。夏と冬を交換する方法です。半年前を思い出してみて下さい。猛烈に暑い東京も、4000時間前は寒かったのです。

 

夏と冬を交換する方法はシンプルで、大量の真水を用意し、次のように使います。

① 夏になったら、冷房や東京を冷やすために使います。

→ 温かくなります。

② 冬になったら、暖房などの熱源として使います。

→ 冷たくなります。

③ ①に戻ります。

 

この方法が優れているのは、外気温を調整するだけではなく、冷暖房や給湯のエネルギー消費を減らせる点です。夏には、まず冷たい水を建物の冷房に使い、やや冷たい水で外気を冷やします。

 

もちろん、真水を貯めておく大きなタンクや断熱された上下水道網のようなインフラは、新たに必要になります。ただ、老朽化した上下水道網等の更新と併せて整備することで、コストを抑えることはできるでしょう。都市の自治体にとって、このような新しいサービスは財政上のチャンスになる可能性もあります。

 

大きな都市はエネルギー効率に優れた居住環境です。集合住宅は冷暖房の損失が小さく、ヒートアイランドは冬の暖房を軽減していますし、交通はエネルギー効率の良い公共交通によって支えられています。

 

それでも東京は、エネルギーを浪費していると思われがちです。福島第一原発事故後の都知事選では、脱原発が主要な争点の一つとして扱われています。しかし、それと引き替えに石炭火力によって支えられた都市であり続けることは、国際都市としては不名誉なことでしょう。

 

都市では、多くのエネルギーが住居・事務所・店舗で使われています。そして、その多くは冷暖房や給湯の20~40℃程度の狭い範囲の温度需要を満たすために使われています。特に大きなエネルギーを使うのは、冬の暖房や給湯です。

 

発電所はエネルギー消費の半分ほどを電力を生産するために使っていますが、電力になるのは4割ほどで、それ以外のエネルギーは、同じような温度範囲の復水器からの廃熱や、より高温の排気による廃熱になっています。

 

福島第一原発事故の後、「原発を代替する電源」というような、狭い議論は散々行われてきました。しかし、エネルギー利用の実態を踏まえて空間的・時間的スケールを大きくしてみると、別の可能性が見えてきます。

 

人々が欲しているのは電気ではなく、冬に室温を外気よりも10℃上げることや、夏に室温を外気よりも5℃下げること、それから夏を暑さを少し和らげること、それくらいのことなのです。

 

3.都市の景観

 

三つ目は何でも良かったのですが、景観にしました。ツイッターでは海外の都市を東京化する作品がバズっていたので

 

これらの東京っぽい景観には賛否があるでしょう。しかし、例えば住宅街に貼られている政治家のポスターや立て看板。あれは全くいただけません。しばしば紫外線で劣化し、お化けのようになっていたりもします。

 

東京の景観をよくする方法には、どのようなものがあるでしょうか?

 

例えば、コンクリートむき出しの電柱。電線の地中化等によって無電柱化するというのも一つの方法ですが、電柱をペイントするだけでも改善されるはずです。

 

幹線道路の歩道の横にある低木。大抵、所々禿げてたり、ゴミが溜まっていたり、元気なお客さん(俗にいう雑草)が生えていたり、風や雨で漏れ出た土が舗装を汚していたりします。いりますか?

 

道路のアスファルトも美しくデザインすることもできそうです。欧州の古い都市にある石畳の道は美しいですが、凸凹です。アスファルトにデザインを加えれば、もっと未来っぽい道路ができるはずです。

 

おわり

やや物質的なテーマに偏ってるように思えるかも知れませんが、地方自治体らしいテーマに絞りました。

 

今でなければいつ増税するのか?への答え

世界経済はリーマンショックから欧州債務危機を経て続く長い低迷と混乱から脱しようとしています。しかし、残念ながら国際機関や先進国の政府は、経済危機を事前に予測できるほど賢くはありません。安倍総理が懸念するように危機の前夜である可能性も否定はできないのです。

 

各国は低迷から抜け出すために、金融政策などを通じて民間の投資を促してきました。そのような政策は、民間による過剰な投資を生じさせるリスクをはらんでいます。過剰な投資は、リーマンショックを引き起こした住宅ローンを含めて、経済的な混乱の原因になります。また、金融政策の余力がない状態にあることも無視はできません。

 

今の景気を良好な状態にあると評価しているエコノミストのなかには、今増税できなければいつできるのかと、逆説的な表現を使って批判している人もいます。その言葉にあえて真正面から選択肢を示すとすれば、金融政策が正常に戻り、さらに適当なインフレ率を超えることが予想されるときが、増税をするべきときです。

 

 

18歳選挙権は本当に憲法違反じゃない?

閲覧数が多いので、最後に追記をしました。

投票日が7月10日に決まった参議院選挙から、18歳以上の未成年者にも選挙権が与えられることになりました。いわゆる18歳選挙権です。

その公職選挙法改正案は全会一致で可決されて、テレビも新聞もお祝いムード一色でしたね。

けれども、ひねくれ者の私は気になっていました。

 

これ、憲法違反じゃないの?

 

バカなこと言ってると思うかも知れないし、「あー出た出た。なんでも憲法違反だーって言い出すやつ」とか思う人もいるかも知れません。

でも憲法には、ちゃんと規定があるのです。

 

公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 

そこで、みんなの人気者なのに名前とルックスが原因で体よく政界引退に追い込まれた民主くんにツイッターで聞いてみました。

 

すると民主くんから返信がー

 

未成年者に選挙権を与えることを禁ずるものではないという解釈は法制審の議事録で見た記憶があるのですが、憲法の規定は「成年者による普通選挙を保障する」なので、

 

 

民主くん優しい!民主くん親切!

 

残念ながらツイートのリンクは既にセッション切れになってしまっていますが、

教えてもらった議事録(平成27年5月29日、衆議院の特別委員会)によると

門山委員 ありがとうございます。一応確認なんですけれども、憲法第十五条第三項は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」と規定しておりますが、十八歳の未成年者に選挙権を与えることは問題ないのでしょうか。これは弁護士の早田先生に御質問いたします。

 

質問者は門山宏哲議員(自由民主党)です。

これに対して、この会議の参考人で、現在は「明日の自由を守る若手弁護士の会」の事務局長でもある早田由布子弁護士が答えています。

 

早田参考人 憲法では、成年年齢について規定をしているわけではございません。この憲法十五条の規定を踏まえて、公職選挙法は二十歳を成年と定めるという扱いになっておりますので、公職選挙法において十八歳を成年とするということによって、その整合性が図られます。
以上です。

 

憲法の当該条規にある「成年」の年齢は公職選挙法で決めれば良い、民法の成年と同じなくても良いという見方です。

 

でもこの見方、微妙なんです。

 

平成26年6月2日、参議院の憲法審査会(議事録)では

 

仁比聡平君 ちょっと別の角度から両大臣の御見解を伺います。
それぞれの制度が立法趣旨が違う、理論的に一致する必要はないということで法務省が強くおっしゃり続けてきたわけですけれども、そうすると、憲法十五条三項に言われる「成年者による普通選挙」という言葉の意義ですね、「成年者による普通選挙」と字句上あれば、その成年年齢と公職選挙の年齢というのは一致しなければならないのかというような問題もあるかと思いますけれども、法務省はどうお考えなんでしょう

 

という仁比聡平議員(日本共産党)の質問に対して、

総務省自治行政局選挙部長は、早田弁護士と同様に、民法の成年と同じである必要はないとする見解を示しています。

しかし、法務省民事局長は

 

政府参考人(深山卓也君) ただいま、憲法十五条三項の「成年者による普通選挙を保障する。」というときの成年者と民法上の成年年齢の関係について御質問がありました。
これは、ある時期に法務省でも網羅的に憲法学説を調べたことがございますけれども、憲法学説上も、この成年者という概念と民法の成年というのは直接の関係はない、どちらかが下がったらどちらかが下がるという関係はないという考え方と、もう一つ、憲法が制定された当時既に、明治以来、日本の民法では成年は二十歳ということになっていた、民法上の成年年齢を考慮して民法上成年年齢に達している人を成年者という概念で表したという考え方、これがやはり有力な考え方、両者拮抗している状態でございます。
前者の考え方に立ちますと、これは立法趣旨も違っていて、言葉は一字違いだけれども、どちらかが下がったらどちらかが下がるというような論理的関係はないということになります。
後者の考え方、民法の成年に達した者を成年者と憲法は言っているという考え方に立ちますと、これは、先ほどの文言で「普通選挙を保障する。」といわゆる制度的保障をしている。憲法上保障されているのは、民法上成年に達した人には全員選挙権を与えなさいと。それよりも若い人たちに選挙権を与えることについては、この学説は挙げて、ほぼ例外を見たことはありませんけれども、憲法の趣旨からして、参政権を与えられる人を増やすことは趣旨に沿うことであって、憲法上保障されているのは二十歳、民法の成年年齢以上だけど、その下の例えば十八歳、十九歳の方に公職選挙法上の選挙権を与えることは憲法上は何も問題はない、むしろ望ましいというのがそちらの考え方に立ったときの説です。
したがって、私たちの整理、これは実は法制審議会で議論したときもそういう整理になりましたが、どちらの憲法上の理解に立っても、民法上の成年年齢が二十歳のままで公職選挙法上の選挙権の年齢が十八に下がるということは憲法上の問題は生じない、憲法違反にはならないということでございます。

 

民法の年齢と一致するとしないと、二つの考え方が拮抗している状態にあるけれども、一致するとする学説では「普通選挙を保障する」と解釈するもの以外をほぼ見たことがないので、いずれにしても未成年者に選挙権を与えても憲法違反にはならないであろうという趣意の答えをしているのです。

 

それでは問題がないのかというと、民事局長がいう

 

民法の成年に達した者を成年者と憲法は言っているという考え方に立ちますと、これは、先ほどの文言で「普通選挙を保障する。」といわゆる制度的保障をしている

 

これ。つまり、

  1. 民法の成年と同一であるかいなか
  2. 「成年者による普通選挙を保障する」を「成年者普通選挙を保障する」と読み替える解釈をとるか

この2つは、全く繋がっていません。

 

「1ならば当然2である」というような関係がないのです。当然のことながら「民法の成年と同一である」かつ「成年者による普通選挙を保障する」という解釈も成立するわけで、それが憲法学界に観察されないのは、検討の不足や偶然、系統(派閥)によるもの考えざるを得ないわけです。

 

 

「による」なんだってば

少し国会の議事録から離れると、民法の成年年齢引き下げは慎重であるべきとする日弁連の「民法の成年年齢引き下げの是非についての意見書」では次のようにあります。

 

憲法15条3項の「成年者」と民法の成年年齢が一致すべきもの であるか否かについては,憲法の解釈論上学説の一致をみていない上,仮に 両者が一致するとの立場に立ったとしても,憲法は,成年者による普通選挙 を保障しているだけであって,法律によって未成年者に選挙権を付与する選挙制度を否定するものではない。

 

繰り返しますが、「に」ではなく「による」なんです。

 

法制審議会民法成年年齢部会の第一回議事録

佐藤幹事 お答えいたします。皆さん御承知のとおり,憲法第15条第3項で,公務員の選挙につきましては,成年者による普通選挙を保障するという規定がございます。今の木村委員の御質問は,ここでいいます成年者による普通選挙というところの成年が,民法上の成年と同じであるかという御質問だというふうに承知しました。この問題につきましては,当方でもちろん憲法の解釈ということも絡むものではございますが,憲法の基本書等を調べてみましたところ,憲法第15条第3項でいう成年者の意味について,これが民法の成年を指すかということを明確に記載した文献自体がそれほど多くなくて,明示的に憲法第15条第3項の成年者が民法の成年者であると記載した文献はございますが,むしろそう書いてある文献自体が少数ではないかというふうには考えております。
憲法第15条第3項の意義につきまして,言及のある文献によりますと,憲法学の学説では民法の成年年齢とは必ずしも一致すべきではないというものから,民法の成年年齢と一致するというものまで,バラエティーがあるようでございます。ただ,民法の成年年齢より低く選挙年齢を定めるということ,例えば民法の成年年齢を20歳のままにして,公職選挙法の選挙年齢を18歳にするということは,選挙権を広く保障するといった憲法の趣旨からしますと,当然に許容されるべきであるという点についての学説は多くて,この点は異論がないようでございますので,必ずしも一致しなければならないということではないように思っております。

これが第十四回になると

憲法は,第15条第3項で「公務員の選挙については,成年者による普通選挙を保障する」と規定しておりまして,成年者に対して選挙権を保障しております。しかし,それ以外の者に選挙権を与えることまでは禁じておらず,理論的には,選挙年齢と民法の成年年齢は必ずしも一致する必要はないということで部会の意見が一致したことは中間報告書でも同様でございました。

 

繰り返しますが、「に」ではなく「による」です。

 

注目してもらいたいのは、第一回の「選挙権を広く保障するといった憲法の趣旨」や第十四回の「それ以外の者に選挙権を与えることまでは禁じておらず」という部分です。

 

改めて憲法がどのように規定しているかを見てみましょう。

 

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 

こうしてみると、「による」を無視できないことが分かると思います。

 

成年者による普通選挙を保障しているのは第三項ですが、第一項に「国民固有」という部分があります。「国民の権利」ではなく、「国民固有の権利」なのは、外国人の選挙権を認めていない、禁じているからです。(最高裁判所平成5年行ツ163号参照)

 

第15条の各項は、単に国民に権利を与える規定というよりも、主権者である国民と公務員との関係、公務員の権能を認めるにあたっての条件、公務員の正当性のようなものを規定しているのです。

 

つまり、法制審部会第一回の「選挙権を広く保障するといった憲法の趣旨」とは違って、ある部分では制限するものでもあると考えることができるわけです。

 

 

民法と違っていていい?

それでは、もう一つの解釈のように、民法の成年と違ってもかまわないのでしょうか?

 

普通選挙は、もともと一定年齢以上の者に財産や収入・納税額といった経済的属性によって差別することなく、選挙権を認めるものです。従って、公職選挙法で決めてよい一定年齢以上であれば、「公務員の選挙については、普通選挙を保障する」で済むはずです。

 

補足すると、大衆選挙という訳の方が分かりやすいと思いますが、普通選挙が要求しているのは納税額等の経済的な属性による差別をしないということだけですから、女性に選挙権がない、男子普通選挙というものも歴史の教科書で見たことがあると思います。

 

 

さて、当然、憲法が下位の法律である民法の定義を具体的に参照することはできません。しかし、わざわざ「成年者」と規定しているのは、それを参照しているからと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 

 

シンプルに言うと、

もし民法の成年を参照していないのなら、「成年者」って書く意味ないじゃん?

ってことです。

 

もちろん、行為能力の取得を免許制するなどして、民法に成年が規定されていない状態も考えられます。そうなると参照することはできなくなるわけですが、今の民法には規定があります。

 

また、成年被後見人の選挙権について争われた裁判で、東京地裁が違憲判断をし、高裁で和解が成立、平成25年の法改正により成年被後見人の選挙権が認められるといったことがありました。

 

行為能力を制限されている成年被後見人の選挙権は、つい最近まで制限されていたのです。もちろん憲法第15条第3項の「成年者」は行為能力を制限されているかいないかを問題としていませんが、民法上の行為能力と選挙権が関連するものと考えられていたことを示すものと言えると思います。

 

 

イイカゲンでいいの?

いずれの議事録等を見ても、国の統治機構に係わることなのに、それほど突っ込んだやり取りがなく、イイカゲンな印象を受けます。条文そのものを精読して検討することをしていないのです。

 

学校で「裁判所には違憲立法審査権がある」と教わったと思いますが、裁判所は法律が作られたときには違憲立法審査をしません。例えば、その法律によって損害を受けたという人が国に対して賠償請求訴訟を起こしたときなどに、初めて憲法に適合するかしないかの判断をします。

 

一方で、そのような訴訟がなくても違憲立法審査を行うようにするべきではないかという議論もあります。裁判所は憲法判断にあたって学界の見解も参考にはしますが、それのみで判断することはないでしょう。もし、法律が作られたときに違憲立法審査をしていたら、18歳選挙権はどのように判断されたでしょうか?

 

 

追記(2016/8/13)

新憲法施行の前後には、様々な法律が整備・整理されました。そうした法律の一つである公職選挙法の制定に際し、1949年7月1日の衆議院・選挙改正に関する特別委員会において、選挙法で何を定めるべきかを明らかにしようとするなかで、法制局第一部長の三浦義男が次のように答弁しています。

 

次に選挙権の年齢をどうするか。これは成年者による普通選挙ということが規定してございますので、この点もあるいは問題とならないだろうと考えている

 

つまり選挙権の年令については、一院制か二院制か、議員の任期をどうするかと同様に、今の憲法においては、選挙法の問題ではないとしているのです。

 

さらに翌回では、次のように答弁しています。

 

選挙人の年令を引上げまたは引下げるの可否でありますが、引下げることにつきましては憲法に成年者による普通選挙権等の関係がありまするので、これは憲法のわく内において考えた場合においては不可能であろうと考えております

 

この答弁では明確に、今の憲法のもとでは選挙権付与年齢の引下げは不可能であるという認識を示しています。もちろん当時の法制局による憲法の解釈が全て正しいとは言えません。しかし、公選法で決めるものだという立場は、少なからず公選法に規定があることを根拠にしているような説明をしているので、疑わしいものになると思います。

 

選挙権を国民固有の権利として、その付与する対象を国民に限定している第一項の規定もそうですが、これらの規定は国民主権の正当性や妥当性、信用を確保しようとするものと考えられると同時に、権力者や多数派が恣意的に付与の対象を拡大したり縮小したりしないようにするものであると考えることができます。

参政権を拡大する方向であれば問題ないという主張も弁護士会の方にはあるようですが、裁判所は外国人参政権については認められないという判断を示しています。

 

 

閣僚が全員死んだらどうなる?

自民党の憲法改正推進本部が2011年に発表した憲法改正草案については、大真面目に考えるべきものではないのかも知れません。当時の自民党は野党で、憲法全体にわたる新憲法草案を言うべき体裁をみても、また、その中身を見ても、憲法改正に熱心な一部の人たちがまとめた資料にすぎないと思えるからです。

 

しかし近頃、それに含まれる緊急事態条項が注目されています。第九章として記されているもので、武力攻撃を受けたときや内乱、大規模な自然災害その他の緊急事態に、総理大臣が緊急事態を宣言することで、内閣が法律と同一の効力を有する政令を制定したり、総理大臣が財政上の措置をとったりすることができるといったものです。

 

この規定の危なさについては、多くの人が指摘をしているので、詳細はそちらを参照して下さい。事前又は事後の国会承認を必要とする規定があるとはいえ、法律と同一の効果を持つ政令を出せるとなれば、国会法を上書きすることもできてしまうのですから、憲法は深刻な脆弱性を含むものになってしまうでしょう。

 

そもそも、現行憲法には緊急事態において速やかな立法措置が必要であるときに備えて、内閣に参議院の緊急集会を求める権限を与えています。そのため、内閣に立法権限を与えても、それほど大きなメリットは見込めません。

 

今回、指摘をしたいのは、緊急事態と関連して現行憲法が抱える脆弱性です。併せて、この憲法改正草案の緊急事態条項と、その必要性を訴える議論が的外れであることを指摘したいと思います。

 

現行憲法では、天皇の国事行為が、いくつかの重要な手続きについて規定されています。法律等の公布、国会の召集、衆議院の解散、国会議員の総選挙の公示といったものです。(※憲法上の役割について論ずるため敬称は付けない)

 

皇位の継承は、法律である皇室典範によって定めることができ、摂政を置くことも、国事行為を委任することも認められています。従って、天皇が欠けたときといった事態には、法律レベルで対処することができます。

 

しかし、天皇の国事行為については、現行憲法では内閣の助言と承認、前出の憲法改正草案では内閣の進言が必要です。昨年、野党が臨時国会の召集を求めたにもかかわらず国会が召集されなかったように、憲法に規定されていることであっても、内閣の助言と承認なしには、天皇の国事行為は行われません。

 

ここで、現行憲法でも悪い内閣が「助言と承認」を拒んで憲法の秩序を壊してしまうことが起こり得るという脆弱性に気付いて驚いたかも知れませんが、忘れて下さい。ポイントはそこではありません。

 

国事行為に、内閣の「助言と承認」や「進言」が必要ということは、国事行為には「内閣が必要」ということです。内閣は歴史的に二十名程度の国務大臣と内閣総理大臣からなる小さな合議体です。閣議などで、全員が一箇所に集まっていることも珍しくありません。

 

もし、閣議中の総理官邸が攻撃を受けて全ての閣僚が死亡してしまうと、内閣は存在しないことになります。国会が開かれているときであれば、国会は総理大臣を指名することができます。しかし、閉会中であったとしたらどうでしょうか。

 

内閣が存在しないので「助言と承認」や「進言」はなく、天皇は国会を召集することができません。従って、国会は総理大臣を指名することができません。内閣がないので、参議院の緊急集会も開かれませんし、非常事態の宣言もできません。

 

国会議員の任期が切れても総選挙を告示できないので、6年以内に国会議員もいなくなります。下級裁判所の裁判官は10年以内にいなくなります。もちろん、憲法改正を発議することもできません。

 

つまり二十余名の死によって、日本の統治機構は「詰んでる」状態になるのです。その脆弱性は、内閣に立法権限まで与えてまで緊急事態に備えようという自民党の憲法改正草案でも放置されています。

 

さて、内閣が壊滅してしまうリスクをどの程度と見積もるかによって、この脆弱性に対応するべきかという判断は分かれることになるでしょう。しかし、私は護憲論者です。憲法を改正せずに、この問題に対応する方法も幾つか考えられます。

 

まずは、国会の自主集会を認める憲法解釈を採ることが考えられます。現行憲法では、天皇による召集を経ない自主集会を明示的に認める規定はありませんが、禁じる規定もありません。第43条は「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と規定していますので、この規定を根拠とすることができそうです。

 

次に、閉会中の期間を生じさせないという方法が考えられます。常に開会中であれば、新たな総理大臣を指名できないという事態は避けることができます。また、内閣がなくなったら国会を召集するという「助言と承認」や「進言」を、予め出しておくという方法も考えられます。

 

最後に、民進党も綱領で「象徴天皇制のもと、新しい人権、統治機構改革など時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに構想する。」と謳っていますが、憲法はOSでいうとカーネルです。

 

もちろんOSのカーネルはアップデートもされますが、そこに触るには相当な能力と勇気、そして慎重さが不可欠でしょう。今の憲法にも不足はあります。しかし、アプリケーションで日常的にエラーを出している人たちが気軽に弄ってしまうと危ないのです。

 

 

公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクト?

先日、板橋区の中妻じょうた区議のブログ公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクトを知りました。

ウェブサイトにある「主意書」や「選挙市民審議会発足にあたって」に記されている民主主義の姿は、自分の考え方とそのものといって良いほど一致しています。憲法に記されているものであるとはいえ、正直驚きです。

 

選挙市民審議会には著名な方のお名前もあれば、お会いしたことのある方もいて、ますます興味津々。

 

近年の小選挙区制・二大政党制・マニフェスト選挙といった流れのなかで、憲法の前文や条文に落とし込まれている主権者である国民の代表者が国会を組織するのであるという、代表性民主主義のイメージは認識され難くなっているように思います。

 

この民主主義のイメージを実現する方法をどのように公職選挙法に落とし込むかには、実際には考え方に違いもあるかも知れません。

 

「選挙市民審議会発足にあたって」のなかに「加えて、立候補しにくいよう、選挙運動を自由にできないようになっています。」という記述があります。

 

選挙運動では選挙期間や戸別訪問の禁止といった制限が規定されていますが、この規制を緩和して自由に行えるようにすることが必要だという考え方だと思います。

 

私は、この点について違う認識を持っています。それらの規定は財力や組織力によって選挙結果が決まることのないようにするものであり、有権者の自由意思による投票にとって、選挙運動を自由にさせることが有益だとは思えないからです。

 

選挙運動の自由な国と言えばアメリカが思い浮かびますが、民主党と共和党の二大政党制で、組織化されて大金を使う選挙が行われています。当然、政策は大金を献金する富豪や企業に影響されます。連邦議会の議員は特別な人たちで、市民の代表からは遠いものになっています。

 

AFP「米選挙資金、4800億円超で過去最高に 大統領・上下院選」

4800円置くんとちゃいまっせ!

 

小選挙区制の導入を今になって後悔している人たちもいますから、目的と結果が違ってしまわないように、間違いのないようにしたいものです。様々なイシューやアイデアを丁寧に議論されるような動きになることを期待しています。

 

もちろん「わたしたちはこの審議会の審議過程を公開し、開かれた議論の場として積極的に市民の参加を呼びかけます。」とあったので、公正・平等な選挙改革にとりくむプロジェクト様には参加させて下さいというのと、ウェブ編集手伝えますというメッセージは送っておきました。

 

団体のtwitterアカウント

 

関連ポストなど

国民による政治

参議院の再定義

定数削減は正当か?

公論府を作ろう.jp

代議投票のススメ

 

 

安保法制は何を残したか?

限定的な集団的自衛権の行使が憲法違反であるという主張は、未だに説得力のある明快な説明を伴わないでいます。それにもかかわらず、まるで憲法に集団的自衛権の行使を禁ずる規定があるかのように憲法違反であると断言している人もいます。

 

かつて政府によって示された47年見解が集団的自衛権による武力の行使を憲法違反であるとしていたとしても、それは当時及びそれ以前の政治的な配慮あるいは思惑の影響を受けて示された「政府の見解」に過ぎません。

 

その見解は長年維持されてはいても、国民に受け入れていたとも言えない程度のものでした。ところが、その過去の政府の見解が、憲法の条文を上書きするような形で、憲法の規定であるかのように扱われてしまっているのです。

 

改めて注目したいのは、集団的自衛権の行使が憲法で明らかに禁じられているかのように思わせる作為的な宣伝が、学者らの権威を利用するなどして行われた点です。

主な新聞やテレビでは、法案における限定的な集団的自衛権の行使が憲法に違反していると「憲法学者のほとんど」が判断していると伝えられていました。

 

しかし、そもそも憲法学者の多数決で違憲か合憲かが決まるわけではありませんが、その質問をしたアンケートで憲法学者の7割(※)は自衛隊の存在も憲法に違反していると答えています。

※ 報道ステーションが憲法判例百選の執筆者に対して行ったアンケートに回答した憲法学者のうち、現在の自衛隊の存在が憲法に違反しているかを質問している朝日新聞が行った憲法学者らに対するアンケートに実名で答えた者の回答を集計した。

 

この、自衛隊が憲法に違反するという判断は、「個別的自衛権による場合であっても武力の行使は憲法に違反する」という考え方と重なります。

そのように考える憲法学者が今回の法案を憲法に違反すると考えるのは、自衛隊を憲法違反と判断する立場から当然のことだと言えますし、その立場においては、集団的自衛権は認められないとする47年見解も受け入れられていないはずです。

集団的自衛権のみが憲法に違反すると、憲法学者の多数が考えているかのように伝えることは不適切であったわけです。

 

そもそも日本が憲法で戦争を放棄したのは、パリ不戦条約によって侵略戦争が非合法化された後にあった第二次世界大戦の教訓からです。

しかし、太平洋において日本は、おそらく集団的自衛権によって戦争を始めたわけではありません。大陸においては、軍の謀略によって満州事変が始まっています。

その教訓の下にある憲法が、国際紛争を解決する手段としての戦争と集団的自衛権の行使のみを禁じていると解釈するのは不自然ですし、個別と集団を区別していない第二章の条文ともかけ離れています。

 

つまり立憲主義を掲げていようと、自衛戦争を合憲であるとか、違憲性を問わないとするのは「憲法に違反していることも必要であると思われるならば認めて良い」とすることであって、正に憲法を蔑ろにすることに他ならないのです。

また、憲法は政府のみならず時々の国民をも拘束しています。世論が認めるのならば違反しても構わないというものでも当然ありません。

 

法案の審議では、集団的自衛権による武力の行使が「存立危機事態」に限定されるために、個別的自衛権の行使となり得ないケースが実際には想定され難いことが「法律を作るべき理由(立法事実)がない」との批判を生んでいました。つまり、その点については、それほど大きな変化があったとは言えません。

 

ところが反対論は、政権側が示した例については個別的自衛権で対処できると指摘し、従来は議論の対象でしかなかった敵基地攻撃を容認し、自衛戦争を認めるかのような変化を生じさせてしまいました。

集団的自衛権が憲法に違反すると言い、又はその主張を強調するためか、憲法学者の多くが自衛隊を憲法違反であるとしている点は隠されていました。過去の政府見解が持つ曖昧さも隠され、個別的自衛権を無制限に認めるかのような言葉が飛び交っていたのです。

そこには、今回の法案によって限定的な集団的自衛権の行使を認めることよりも大きな変質があったと思います。

 

集団的自衛権は憲法違反であるというマスメディアの報道、そこに登場する少数の憲法学者、さらに多数の野党議員が、自衛隊や個別的自衛権は憲法に違反せず、容認されるとの考え方を示していました。

彼らは、その根拠を十分に説明していたでしょうか。同じ主張を掲げて立憲主義を唱えていた市民団体やデモの参加者、そして視聴者である国民は、適切な情報を得ることができていたでしょうか。

 

権威と市民

この間の事態を見ると、社会は学界と市民の関係を検討する必要があるように思います。

通常、ほとんどの人は自ら熟考することはなく、受け取る言論のいずれかを選択することによって意見を持ち、その集合によって世論が形成されます。それはマスメディアから受け取る情報の量やレッテル、発話者の権威に影響されてしまいます。

 

今回、法案に反対する人々は、学者の権威を受け入れ、立憲主義を唱え、憲法学者を拠り所にして憲法違反を訴えていました。しかし、それは封建的で、市民による自由な意見の表明や議論を妨げ、又は隠してしまったように思います。

このように、学者の権威や学術上の用語が市民のコミュニケーションを難しくすることは珍しくはありませんが、今回は学術用語や反知性主義といった言葉が政権に批判的なコミュニティにおいて流行し、顕著に見られました。

 

さらに注意するべきは、市民のみならず議員までもが憲法学者の威を借りて憲法違反と叫び、自らが立法府のメンバーとして憲法をどのように解釈し、判断しているのかを示していなかった点です。

端的に言えば、学者といった権威や憲法学者のほとんどといった数の論理が民主主義を自称していました。しかも、先に示した通り、憲法学者の多くは自衛隊についても違憲性を指摘しています。学者の権威すらも歪曲されていたのです。

 

デモは民主主義か?

デモは日本語で示威行為と訳されるデモンストレーションの略で、デモクラシーの略ではありませんが、デモと民主主義が関連付けて扱われることも多くあります。

独裁国家では制限していることが多いので、映像的に捉えることのできるデモは、民主主義体制を宣伝する象徴的な材料になっています。しかしそれは、デモと民主主義が対立しないことを示すものではありません。

 

デモの内容や形態は様々で、利益団体が政治を動かす方法の一つとして行うこともあれば、国家や政党などの組織がデモをして民衆を扇動することもあります。

ヘイトスピーチのように肯定できないものもあります。ナチ党もデモをし、集会を警備する準軍事組織の突撃隊が行進し、シンボルを掲げ、若者の支持を得ていました。

 

国会前などでの継続的なデモは、圧力によって政策を変更させようとするもので、これは政治献金により政策に影響を与えようとすることに似た行為と言えます。

日本の業界団体は献金や選挙応援をすることで利益誘導を試みますが、外国では農畜産業の団体がトラクターで行進したり、政府機関の玄関前に迷惑な土産物を残したりするデモもしばしば行われています。

 

しかし、デモの参加者は国民を代表してはいないので、このような圧力は代議制民主主義と対立し、民主主義を歪めてしまうおそれがあります。本来は、国会に国民社会が投影され、いかなる圧力をも受けない自由な討論と表決が、民主主義を達成する手だてになるからです。

実際には代議制の理想的な姿が現在の国会にあるとは言えませんが、その是正を求めるものでもないのに圧力をかける側が民主主義を掲げることには矛盾があると言えるでしょう。

 

一方、民衆に対する言論の手段としてのデモは、代議制民主主義とも対立しません。しかし、その内容は様々で、しばしば扇動的になります。

総理大臣を批判することは当然の権利ですが、反安保法制のデモで用いられていた「アベを許さない」と書かれた紙が扇動的であったことは否定できません。

制作者らに「大衆を操るには憎悪を掻き立てるのが唯一有効な手段だ」といった認識があったかは分かりませんが、近年では抵抗勢力や官僚を憎悪の対象にして国民を扇動することもしばしば行われており、その手法の危うさは認識する必要があるでしょう。

 

また、かつては出版などの手段を持たない市民が意見を示すために欠くことのできない手段であったとしても、現代の社会にはインターネットがあります。影響力についてはマスメディアに到底対抗できまでんが、市民はSNSやTwitterに意見を示すことができますし、より理性的な議論をすることもできるはずです。

 

今日のデモはマスメディアに取り上げられることによる効果を狙っているのかも知れませんが、実際にはマスメディアはそれを取り上げないこともできますし、批判的に取り上げたり、着色したり、歪曲したりすることもできます。残念ながら市民は、それらに対抗する有効な手段を持っていません。

 

歴史を振り返ると公民権運動のように「有権者ではない人々」が権利を得るためにデモや座り込みなどの行動をとっていました。その最近の例は香港の雨傘革命で、それは行政長官の選出について選挙権を持たない、かつ将来の選挙権が不十分であると認識する人々による「真の普通選挙」を要求するデモでした。

また、2011年にニューヨークで行われたオキュパイウォールストリートも、政治献金によって民主主義を歪めているウォール街と政界に対する抗議でした。

 

しかし、雨傘革命やオキュパイウォールストリートは目立った成果を得ずに排除されています。実際のところ、暴力性の薄いデモが十分な効果を得ることは難しいのでしょう。

非暴力の抵抗として知られている過去の例も、それ自体が全く暴力性を持たないものであったとは言えませんし、その外に完全に暴力的な脅威がありました。

 

今の日本では、おそらく安保法制反対デモに参加した人々を含めてほとんどの人が、国内での暴動やテロを無条件で否定しています。しかし、暴動とデモの線引きは容易ではありません。

例えば、路上でゴミやタイヤを燃やすといった行動は、映像的には暴力的ですが、人に危害を加えるものとは言えません。主張を唱えることは暴力的には見えませんが、大音量で行えば、その対象や近隣の人に苦痛を与えることになります。ヘイトスピーチがそうであるように、内容によって暴力的になることもあります。

 

民衆による暴力が民主主義に必要ないとも言い切れません。独立戦争により独立した国では、その歴史が肯定的に評価されていますし、武装する権利を認めた米国の憲法修正第二条は抵抗権と無関係ではありません。

外国や過去の暴動やテロは否定的に評価されているとは限らず、失政の結果として捉えられることもあります。

 

現代の米国では、警察や司法による不当な扱いの是正を求める黒人らによる動きが暴動や暴力に発展し、是正へ向けた動きを引き出しています。今の黒人は公民権を持ってはいても、少数派で、人種差別的な実態があり、それによって刑務所に収容されている黒人も多いといった事情があります。

 

一方、反安保法制のデモを見ると、おそらく彼らは有権者であって、確かに彼らは民主主義を掲げてはいますが、その主な訴えは選挙制度や政治献金によって民主主義を歪めることに対する抗議ではありませんでした。統治権力が選挙などの基本的なことについて不正をしたものではなく、他の方法をとることが困難であったとも言えません。

 

今回、元気・次世代・改革の3党と与党の合意によって付帯決議が付けられましたが、元気会の政調会長はこれについて、デモなどの反対運動によって為し得た合意である旨の指摘をしています。つまりデモやマスメディアによる圧力は、3党によって政策に影響するものとなったのです。

 

もちろん伝統的にデモを行う権利は言論の自由に含まれます。しかし、純粋な言論とは言えず、暴力性が全くないとは言えません。そして、代議制の民主主義と対立し得ることは、気に留めておく必要があるでしょう。

 

強行採決絶対反対?(ついで)

国会の会期末が近付くと、反対デモは「強行採決」に反対するようになりました。この言葉は市民側から発せられたものでしょうか。

 

そもそも憲法が予定する代議制では、国会で議員が自由意思によって討論し、表決することが期待されます。その代議制を歪めている実態の一つに、政党による党議拘束があります。これは議員の表決、つまり法案に対する賛否が、政党によって決められるものです。

 

今回の反対デモやマスメディアが批判していた数の論理や強行採決といった言葉も党議拘束の産物です。反対デモが真に市民側から発せられたもので、民主主義を要求するものであったとするなら、まずは全ての政党に対して党議拘束を外すことを要求する方がずっと自然であったはずです。

 

 

高橋洋一氏の記事に関するおときた都議のブログ記事について思ったことを

 

直接民主主義を標ぼうする日本を元気にする会おときた都議が財政についてブログに書かれていたので色々とツッコミを入れてみます。彼のブログは高橋洋一氏の記事についてのものです。どうぞ合わせてご覧下さい。

 

 

まずツッコミたいのは彼が重きを置くとしている

 

「経済・財政は、『ヤバイ!』と感じた人が多数派になった瞬間に破綻する

 

確かに取り付け騒ぎのようなリスクは常に存在します。しかし、それは政府の借金が多いか少ないかに関係なく存在します。

 

本当にヤバイかどうかは関係なく、多くの人が破綻すると思った瞬間に、その国家財政は破綻へとまっしぐらに突き進みます。株式会社も同じですよね。

 

この後に株式会社について触れられているのですが、株価が下がって株式会社が潰れた実例はあるのでしょうか?ドラマではそんなシナリオもあるかも知れませんし、企業で信用不安から取引ができなくなって倒産してしまったといったことはあるでしょうけど。

 

それはそれとして、大前提として市場に理性的な振る舞いを期待できないのであれば、市場を使うべきではありません。郵便貯金を民営化するといった愚行をしないで、郵便貯金や個人向け国債で、信用できない市場や銀行を介さずに個人と直接取引していればいいわけです。

 

さらに個人までもが郵便貯金や個人向け国債も嫌だというなら、日本銀行が国債を買い入れて日本銀行券を発行し、引き落としや償還に際して個人に渡せばいいわけですね。

 

 

一点目について

高橋氏の記事に最初に書かれているのは、1000兆円の借金というけど政府には資産もあるから純負債残高はそんなに多くないよといったものです。もちろん出資金や貸付金、さらに橋や道路も証券化して売ろうと思えば売れます。

 

ただ、この話は政府の財政と民間企業の会計を混同したようなもので、結局、「財政健全化が必要だ」という枠の中にあるものです。政府の出資・貸付先は自治体や準政府機関ですし、それらを売ったところで債務超過だから民間企業なら倒産してるといったパターンのお話に陥ってしまうでしょう。

 

1000兆円になる前、500兆円のときでも十分騒いでいましたから、借金の額をディスカウントしても意味があるとは思えませんし、政府が持つ資産を売って財源を確保しろといったお話になってしまうと、政策手段を失わせたり、非効率を生じさせることになってしまうでしょう。

 

政府資産の売却については、おときた都議も

 

それが本当の意味で「売っても大丈夫」なのかどうかは精査が必要です。

 

と指摘しておられます。

 

さらに面白い指摘をしています。

 

「え、やっぱり日本の財政って、相当に悪いんじゃ…?」
と懸念する人たちを急増させ、それが財政破綻のトリガーを引くことにもなりかねません。

 

物事の裏を読む感じですか?

 

もっとも資産を売ってもバランスシートが改善するわけではありませんから、バランスシートでは資産もあるからこれでOKじゃないかというお話で良いと思うわけですが…

 

二点目について

高橋氏の記事を読むと正直「めんどくさっ・・・」です。金利が発生しない国債は債務じゃない的な^^;

 

おときた都議は皮肉交じりに

 

それどころか有利子の国債から無利子の日銀券に転換する際に差益(シニョリッジ)が発生するのだから、これを続けていれば国債の総額すら減らしていくことが可能になるのだっ!

 

そういう意味? 利払いが戻ってくるだけなので総額は減らないと思いますが。

 

それはさておき、おときた都議は量的緩和の問題点について

 

高橋氏も指摘するように、政府が国債を発行して日銀券(紙幣)が増えれば、貨幣供給量が増えて円の価値が下がる=インフレになる可能性があります。

 

日本銀行券が増えたからってインフレになるわけではありません。(もっとも量的緩和で紙幣が増えるわけでもありませんが)

 

インフレ率は支払われる額(名目)と物やサービス(実質)の比率のことですから、札束を金庫に入れておいてもインフレになるわけではないのです。お札はインフレ祈願の御札ではないのでね^^

 

おときた都議は

 

インフレというのは(恐慌や財政破綻と同様に)国民の経済感情に左右され、いつ発生してどれだけの勢いで突き進むかわからず、一度発生してしまうとそれを「退治」することはデフレ以上に難しいと言われています。

 

国民が思えばインフレになる的なマインド、確かに全くありえないとは言えません。しかし、デフレ以上に難しいなんてことはありません。税率引き上げて可処分所得を減らせば、支払われる額(名目)が減るので、インフレ率は下がります。(デフレ退治はその逆をすれば良いわけですが)

 

それと、マイルドなインフレは悪いことではないので

 

で、日本でインフレが発生した瞬間に恐らく、ドミノ式に国際世論は「日本の財政ヤバイ!」論に傾いていくでしょう。

 

ということもないです。もちろん、ここでいうインフレは高い率を想定しているのでしょうけれども、そのインフレと財政がどう繋がるか、もう少し考えてみても良いのではないでしょうか。

 

最後

 

金融緩和どうのから政府債務に戻って

 

借金が200兆円であれ1000兆円であれ、単年度の収支がマイナスで返すアテのない状況はいかんともしがたいものですし、年金や社会保障などの積立不足による「隠れ借金」への懸念も指摘されています。

 

つくづく熟議の必要性を感じます。

 

 

これは各部門の金融純資産額(縦)を時系列(横)に表したチャートです。ご覧の通り、家計が純資産をどんどん増やしています。そして、注目して欲しいのは資産のプラス額とマイナス額が同じ高さで推移している点です。

 

お金と借金はセットです。家計が蓄えを増やせば、誰かが借金を増やさなければいけません。それをしないと、家計が節約した分、消費が減って、不景気になり、失業が発生し、たくさんの人が自殺という形で命を奪われてしまうのです。

 

政府なら「返すアテ」は税収ということになると思います。ご存じの通り国は法律を変えて増税をすることができます。ただ、例えば所得税を上げれば可処分所得が減り、景気が悪くなってってしまいます。

 

しかし、増税をしても景気が悪くならないときもあります。インフレのとき、人々が預貯金を取り崩すときです。そうしたときの増税はインフレ率を抑えてくれます。

 

 

本当にヤバくなる前に是正することが本質的な解決と言えます。

 

ヤバくなる原因が人々の心理にあるとするなら、熟議を通して理解を深めるようにすることが本質的な解決ではないでしょうか。根拠も曖昧なままでヤバいヤバいと不安を煽ることは、その反対であるように思います。

 

おときた都議は同年代です。中学生くらいのときに国と地方の借金が500兆円を超えたといって騒いでいた様子を見ていたと思います。財部誠一さんの借金時計が話題になったりもしました。しかし、少なくとも国民に見える形では、まともな議論は一度も行われたことがありません。

 

経済学者の主張に色々あっても、政治家は正しい答えを見つける努力をするべきでしょう。それをしない、不作為の責任は軽いものではありません。

 

国会議員の育休は認められるか?

国会議員の夫婦が育休を取るとした件について、様々な意見が交わされています。比較的若い世代では、男性の育休取得を啓発することに期待するなどの理由から肯定的な意見が多いようです。

 

一方で、国会議員と被用者の違いを指摘する否定的な意見も見られます。政党所属の議員が多いなかでは少し誤解されているかもしれませんが、確かに国会議員は被用者とは違います。当然、育休を取ると言っても被用者の育休制度を使うわけではありません。本会議のときにお休みの届けを出すそうで、予定されている期間も夫の方は1ヶ月と短いものです。

 

今の法律では育休の取得には被用者であっても制限がありますから、それらと照らしたときに国会議員の育休が適切なのかといった制度に関する議論もありそうです。そもそも被用者の育休制度には、一般的な人事慣習のなかで育児のための一時的な休職を求める労働者の利益を守る役割が期待されているはずで、国会議員にそのような保護が必要なのかを考える必要もあるでしょう。

 

さらに国会議員は個人事業主や経営者とも違います。国会議員は国会における国民の代表者で、本会議で国会議員がする表決は、いわば私たちが投票所で国会議員に投票した票の代わりです。この点で生産活動と同列には語れません。本会議での表決を代行させることもできません。それらの特殊性は、被用者や事業主らにはない様々な責務や特権の理由でもあります。

 

育休には母子の保健、育児による負担の緩和、子供の利益、ワークライフバランス、制度には人事慣習からの保護、収入の安定、政策的には出生率の向上、保育サービスの需給緩和、男性の育休取得にはさらに女性が労働市場で不当に評価されることを緩和するといった意味もあるでしょう。

 

このように様々な意味を持つと考えられる育休ですが、生産が国や社会に求められるものではないと考える人のなかには、そもそも育休の優待に不満を持つ人もいるでしょう。
また、おそらく一般的には国会議員がワークライフバランスのために本会議を休むといったことは、認められないでしょう。少し前には本会議を欠席した議員が診断書を出したかどうかといった騒動もありました。

 

もちろん国会議員であっても、産休は認められるでしょうし、それに相当する期間、男性が育休を取ることも、女性が不当に評価されることを緩和する意味で肯定され得ると思います。あとは育児による負担の緩和や子供の利益といったことのために、本会議まで休むことが認められるかということになりそうです。

 

もちろん、男性の国会議員による育休取得を象徴的な出来事として、広報的な効果を期待するのであれば、そうした議論は不要でしょう。ただし、国会議員が象徴的な出来事の主体になり得るか、なるべきかについては、また別の検討をしなければならなそうです。