署名キャンペーンをはじめてみたけど…

二週間ほど前から、署名サイトchange.orgで民主党に、財政政策についての情報公開を求めます!を始めました。特設ページも作りました。昨年の同時期に炎上した #どうして解散するんですか を参考にしつつ、なるべく文章量少なめで作りました。

 

しかし、今のところ賛同者は自分だけ… orz

 

炎上どころか煙も出ていません。財政政策に情報公開、テーマがマニアックなのは分かっています。でも、これはとても重要なことです。90年代から「財政健全化」は、財政による景気対策や社会福祉を抑制させてきました。そして、長い不況は十万人以上を自殺に追い込み、就職難や生活苦をもたらしました。

 

公開を求めたいのは、財政健全化について民主党がどのように決定してきたのかを検証するために必要な記録です。民主党が本当に解散してしまう可能性がどの程度あるのか私には分かりませんが、少しでもあるとすれば見過ごすことはできません。どのような記録が作られ、保存されているかも分かりませんが、解党によって保存されている記録が失われてしまうおそれがあるのです。

 

もちろん政策を決めた過程の情報を公開することは、政党が掲げている政策が適切な検討を経たものであるかを有権者が知るためにも大切です。このような情報の公開は、政府に対しては盛んに要求されています。しかし、選挙で投票をする国民にとっては、むしろ政党の情報公開の方が大切です。来年には参議院選挙もあります。

 

 

現状、政党は政策の根拠を十分に説明してはいません。他の政党や報道機関が説明を求める対象も限られています。財政再建についても、そうした説明が行われてきていません。他の政党や報道機関も、民主党と同じ見解を示してきたからでしょう。

 

もちろん、民主党が特別、公開するべき責任を負っているわけではありません。しかし、民主党と他の党が財政再建を行うことで一致していたことは、民主党が情報を公開することが、もし検討に不足や間違いがあったときには、他党へも同様の情報公開を迫る圧力になることを意味します。

 

そして、民主党は政府の情報公開に比較的熱心な政党です。市民が求めても応じてくれないであろう政党と比べれば、少しは応じてくれる可能性がありそうです。

 

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夫婦別姓について諸々書いてみた

最高裁判所が夫婦別姓について違憲ではないと判決しました。

 

私はこの問題や選択的夫婦別姓案の存在を知ったのは15年前で、水島広子さんの事務所に伺わせて頂いたとき、集会に参加させて頂いたときです。そのときから、問題を解決することには賛成です。もっとも、その後に興味を持って調べるほどのこともしていないので、ほとんど知識はありませんが、そんな立場から少し。

 

まず判決文を読むと、この問題を国会で論ぜられるべきものとしており、わざわざ選択的夫婦別姓を違憲とするものではないことを指摘するなど、丁寧な配慮がされています。残念ながらマスメデイアでは裁判官の年齢や性別を理由と思わせる伝え方をしているところもありますが、そもそも裁判所は法的な判断をするところであって、政策の善し悪しを判断するところではありません。

 

また、女性裁判官3名はいずれも違憲と判断したという伝え方もされています。その岡部・櫻井・鬼丸裁判官は、岡部裁判官の意見に櫻井・鬼丸裁判官が同意する形で、意見を統一しています。これには正直、違和感を持ちました。もちろん偶然そうなった可能性もあるでしょう。しかし、三名が「女性裁判官の役割」を演じてしまっているとしたら、好ましいとは言えないでしょう。

 

さて、現在の民法は夫婦いずれの氏を選択するかは当事者に任せています。ほとんどは夫の氏を選択していますが、それには慣習や希望、夫の氏を選択しても職業上の不都合がないといった理由が考えられます。また、判決文でもおそらく触れられていないと思いますが、広く社会が女性の氏は変更されることがあると認識していることもあるでしょう。これらの理由を積算した結果、夫の氏を選択する確率が高くなることは不自然ではありません。また、このような社会的な原因は、選択的夫婦別姓を導入して変わるものでもありません。

 

氏の機能については、家族と個人について、それぞれ作用する内部的なものと外部的なものが考えられます。家族に作用する内部的なものは所謂「家族の絆」、外部的なものは家族の識別、個人に作用する内部的なものはアイデンティティ、外部的なものは同一性識別機能です。

 

おそらく選択的夫婦別姓を求めている人は、アイデンティティや同一性識別機能が婚姻によって損なわれることを批判しています。ただ、同一性識別機能については、インターネットの高度な普及によって、状況が変わってきているかも知れません。氏名を検索すると同姓同名の別人がヒットする可能性も相当程度高く、インターネット社会ではSNSのアカウントで個人を識別し、ウェブサイトで経歴を一覧することができるからです。

 

職業上の個人の識別には、企業名などが使われることもあるでしょう。企業名は企業が自ら変更することもあれば、合併によって変更されることもあります。個人が企業を移ることもあるでしょう。そう考えると、同一性識別機能について言えば、こうしたときにも個人の識別ができる、インターネットにおけるDNSのような名前解決のインフラを整備する方が合理的かも知れません。

 

また、選択的夫婦別姓の議論を見ると、キャリアを積もうとする女性といわば家庭に入ろうとする女性を分けているような印象を受けます。しかし実際には、婚姻によって家族が同じ氏を持つことを積極的に肯定しながら、職業上では同一性識別機能を求めているといった人もいるでしょう。婚姻時とは違う希望を持つようになることもあるでしょう。もちろん男性についても同じです。

 

そもそも混乱の原因は、氏の機能同士の対立であると考えれば、機能によって分けるという選択肢もあるでしょう。家族の名称と同一性識別機能やアイデンティティを期待する氏名を分ける方法です。この方が子どもに関連する部分で、社会的な合意を得やすい可能性があります。

 

不都合の解消を求める人々の要求が、選択的別氏制によって解消されるかについても、検証が必要かも知れません。民法や商法には、法律上は存在してもほとんど使用されていない制度もあります。別氏がほとんど選択されなかったときには、その存在が社会から忘れられてしまい、不都合が解消されなくなってしまうおそれもあります。

 

集団的自衛権と憲法保障について考えてみた

権威に従う姿勢は民主主義を脅かします。憲法解釈が正しいかどうかは、憲法学者の多数決で決まるものではありません。また、裁判所の憲法解釈も変更され得るものですから、過去の判決すらも絶対ではありません。当然、過去の政府による解釈が絶対であるはずもありません。

 

憲法は最高裁判所に、法律等が「憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」の地位を与えてはいますが、裁判所が正しい憲法解釈をするとは限りません。日本の憲法には成文の法典があり、政府や国会、裁判所の憲法解釈が正しいかは、終極的には国民が判断しなければならないのです。

 

集団的自衛権が違憲なのか

戦争の放棄を謳う憲法の第二章は、第9条の第一項と第二項で構成されています。第一項は国際紛争を解決する手段としての武力の行使等を放棄しています。自衛の手段が国際紛争を解決する手段には含まれないとする解釈をとれば、第一項では自衛の手段としての武力の行使は禁じられてはいません。

 

しかし、第二項は戦力の保持と交戦権の行使を禁じています。ここには第一項にある「国際紛争を解決する手段としては」という限定はありません。

 

過去の政府による見解では、交戦権の行使は認められないとしつつも、自衛のために必要最小限度の実力を行使することは、自然権や13条を拠り所として認められてきました。言うなれば、13条が9条に優先するというのです。

 

13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定しています。

 

今は集団的自衛権のことばかりが言われ、個別的自衛権による武力の行使が合憲であるか否かは、ほとんど無視されています。確かに従来の政府見解では、集団的自衛権による武力の行使は違憲とされてきました。しかし、憲法には個別的自衛権であるとか、集団的自衛権であるとかという記述はありません。

 

今でも憲法学者のなかには、個別的自衛権による武力の行使や自衛隊の存在を違憲であると考える人が少なからずいるはずです。しかし、その点を指摘すると世論の同意を得られないので、いわば隠され、避けられているのです。

 

報道ステーションのアンケート

テレビ朝日・報道ステーションが憲法判例百選の執筆者を対象に行ったアンケートでは、およそ150人の回答者のうち限定的な集団的自衛権の行使について「憲法違反の疑いはない」と回答したのが3人のみであったことで、憲法学者のほとんどが違憲又は違憲の疑いがあると考えていることを示しました。

 

アンケートの回答は番組のウェブサイトで公開されています。そのなかで、早稲田大学大学法学学術院教授の水島朝穂氏ら複数の回答者が、自由回答のなかで従来の政府による解釈(個別的自衛権による武力の行使や必要最小限度の実力の保持は可能とするもの)を否定する考えを示しています。

 

安倍政権を批判する文脈では邪魔でしかないのかも知れませんが、国民が憲法学者の見解を知る上では欠かせないはずです。報道番組が資料を公開することは、現状では高く評価できますが、視聴者の殆どは閲覧しないでしょう。放送ではっきりと指摘をされなければ、視聴者は認識することができません。

 

誰が立憲主義を守っているのか

立憲主義が流行語のようになっていますが、実際には立憲主義を声高に叫ぶ人々も、憲法を軽視し、歪んだ解釈を受け入れてしまっています。18歳から選挙権を認める公職選挙法改正は、その分かり易い実例です。

 

憲法第15条第三項は「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」と規定しています。この規定は、成年者に普通選挙権を保障しているのではなく、「成年者による普通選挙」を保障しています。そのため、未成年者に選挙権を与えることは、この規定に反することになります。

 

しかし、この法案は与野党が共同で提出し、両院の本会議で全会一致により可決され、成立しました。安保法案を立憲主義に反すると批判している民主党や社民党、共産党も賛成し、テレビや新聞も肯定的に伝えました。

 

そして彼らは、集団的自衛権の限定的に認める法案を批判する際にも、批判の対象を「解釈の変更」とすることによって、個別的自衛権による実力の行使を認めてしまっています。

 

政府・与党側が再び米軍基地の拡張に関する砂川事件の最高裁判決(昭和34年)を持ち出すと、反対者はその判決が、我が国が集団的自衛権によって実力の行使をすることを認める根拠とはなり得ないことを指摘しました。

 

この判決では、日本は「自衛権」を放棄していないとしていますが、それは自衛のために安保条約を結んで外国軍を駐留させることは第二項が禁じる戦力の保持にはあたらないとしているのであって、「いわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否か」の判断はしていません。

 

この通り砂川判決を含めて、裁判所は自衛隊や個別的自衛権による実力の行使が合憲であるかどうかについても判断をしていません。それならば、立憲主義を掲げる反対者は何を根拠にして、自衛隊や個別的自衛権による武力の行使を認める従来の政府見解を受け入れているのでしょうか。

 

もちろん、仮に憲法が自衛隊や外国軍の排除までもを禁じているのであれば、不安を感じる人が大半でしょうし、その不安が第二章を変更する理由となることを懸念する人もいるでしょう。

 

しかし、それが憲法の正しい解釈であれば、受け入れるのが法治国家です。

 

条文を素直に読めば、そもそも第二項が禁じているのは戦力の保有や交戦権の行使で、これは外国の領域を攻撃する組織や行為を禁じているに過ぎないことが分かります。日本の領域から外国の軍隊を排除する組織や行為は、これらにはあたらないはずです。

 

今の政府見解では相手国への敵基地攻撃もできるのですが、実際の防衛政策や運用においては、自衛隊は敵基地攻撃能力を持たず、攻撃は米国による集団的自衛権の行使や安保理の措置に期待し、任せてきました。砂川事件の最高裁判決でも自衛権の枠内で安保理や安保条約を論じているように、自衛の権利と交戦権、実力の行使は、イコールではないのです。

 

曖昧な従来解釈の危うさ

政府が「集団的自衛権は認められない」としてきた見解を引き継ぐべきだという考え方は、そうであるかは別として、あるかも知れません。しかし、議員立法で行われるのであれば、過去の政府の見解に縛られることはありません。

 

繰り返しになりますが、憲法は個別的自衛権と集団的自衛権を区別してはいません。また、13条が第二章に優越するのであれば、国内法上は、国民の生命が脅かされるケースではなく、財産や幸福追求の権利が脅かされるケースでも、武力の行使が認められ得ることになります。

 

13条を優先させる解釈を肯定し続けることは、国民の生命や幸福追求の権利を尊重するということが狭い視野でとらえられ、それを防衛力によって達することを、憲法が国会や政府に要求しているかのような認識に繋がりかねません。今でも、そのような認識をしている人は少なくないように思います。

 

そうなれば、武力攻撃を受けたときや集団安全保障措置以外の武力行使を禁じている国連憲章をも軽視し、やがて敵基地攻撃能力を保有し、集団的自衛権によってそれを使うようになっても不思議ではありません。今回の安保法制での政府答弁は、そうなる可能性を示唆しています。

 

それでも集団的自衛権を限定容認する解釈が、従来の解釈と比べておかしいと言える明瞭な根拠を、反対者が示せていないのは、従来の解釈が明快さを欠いていたからに他なりません。

 

第二章を変える必要がない?

日本には日本国籍を持たない人もいます。彼らの生命や自由も当然大切で、第13条から保護の対象を(文言上とはいえ)日本国民に限定している「国民の」という部分を削ることに反対する人は殆どいないでしょう。

 

しかし、第13条によって個別的自衛権による実力の行使が認められているのであれば、その改正によって集団的自衛権による実力の行使も認められることになってしまいます。

 

国外にも国民はいますから、保護の対象は今でも日本国内にいる人々には、必ずしも限定されてはいないはずです。13条によって国民の生命や自由、幸福追求の権利を守るために敵基地攻撃ができるのであれば、国際法の制約があるとはいえ、国外にいる日本人を保護するために実力を行使することもできることになります。

 

集団的自衛権は自衛権ではないのか?

集団的自衛権は違憲であるとする反対者には、「集団的―自衛権」の行使は自衛ではなく、言葉が誤解を生じさせているので「他衛」と呼ぶべきだという人もいます。自衛は認められるが、他衛は認められないというのです。しかし、おそらくより正しいのは「集団的自―衛権」でしょう。

 

例えば、日本が複数の国に分かれ、それぞれが憲法の規定と解釈を基本的に引き継いだとき、防衛力である自衛隊を共同で保持したり、武力攻撃に対して共同で対処したり、あるいは、やや扇動的に感じる人もいるかも知れませんが、沖縄が独立をしたとして、その沖縄を守るために、自衛隊の基地を置いたりすることを考えてみて下さい。

 

裁判所はどう判断するか?

仮に憲法判断が必要な訴訟があったときに、最高裁判所は「集団的自衛権の限定容認のみ」を違憲と判断するでしょうか。憲法には集団的自衛権や個別的自衛権の文言はなく、裁判所が集団的自衛権の限定容認のみを違憲とするためには、従来の政府見解を丸呑みするしかないかも知れません。

 

憲法学者らのなかには、集団的自衛権を限定容認することによって、従来認められるとされてきた自衛のための必要最小限度の実力の行使までもを違憲と判断せざるを得なくなるのではないかという認識があるのではないでしょうか。そうであれば、問うべきは解釈の変更ではなく、従来見解そのものです。

 

憲法を変えれば良いのか?

政府が解釈を変えることが悪いのだという批判は、従来の見解を正当化するだけではなく、今やメディアによって政治的な影響力を与えられた憲法学者らによる「憲法を変えるべきだ」という台詞を盛んに引き出しています。

 

いかなる条件が付けられていようとも、この言葉は一人歩きをはじめるおそれがあります。改憲派は「国民に問うべきだ」と言えるようになったので、国会による発議のハードルは下がりました。今回の法律が通過した後には、正に「法律に憲法を適合させる」ための憲法改正も見えてくるでしょう。

 

反対論には「憲法を変えて対応するべきだ」というメッセージが溢れています。

 

もちろん、憲法を変えることが絶対にダメだとは言えません。しかし、「時代の流れに合わせて変えれば良い」という人も多いなかで、その選択は不必要なリスクを生じさせてしまいます。おそらく社会は、「時代の流れ」と「時の世論」を区別することができないからです。

 

憲法保障と解釈の手続き

ところで、政府や国会に憲法を守らせるには、裁判所の違憲立法審査は不可欠です。しかし今は、裁判所が法律等が憲法に適合するかしないかを具体的な事件にかかわるときに限って判断する付随的審査制が採られています。抽象的審査制と比べると、裁判所の機能が制限されています。

 

但し、憲法には付随的審査制を採れとは規定されていないので、裁判の形式であれば立法によって抽象的審査を採ることはできると考えられます。むしろ、最高裁判所が第81条によって与えられている権限を行使できるように、制度を整備する必要があると考えることもできます。

 

第81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しています。

 

例えば、特別の検察官が法律等が憲法に適合していないとする訴えを下級裁判所たる憲法裁判所に起こし、最高裁判所を終審として抽象的審査を行う仕組みが考えられます。法律の施行前に審査が行われるのならば、強力な憲法保障の仕組みとして機能することを期待できます。

 

憲法裁判所を下級裁判所として設置すれば、立法等に先立って裁判所に見解を示してもらう仕組みも作りやすくなります。下級裁判所の見解であれば、裁判で事前の見解と異なる判断を行うことも妨げられ難いからです。

 

一方で、裁判所は統治行為論によって判断を避けたり、国会や政府に広範な裁量権を認めたりする傾向があります。裁判所が政治的な事柄について関与を深めることで司法が政治に巻き込まれ、内閣が行う最高裁判所の裁判官の人選にまで影響が及んでしまう可能性を考えれば、一概に否定はできません。

 

と言っても、この傾向は憲法を空文化することにもなりかねません。そう考えると、もし違憲審査を補強する形になるのであれば、国会に裁量権を認めるか否かを国民が判断する手続きもあって良いかも知れません。

 

但し、それは法的拘束力を持たず、裁判所の決定権を妨げないようにもしなければなりません。国民による直接判断の手続きが存在することで裁判所が判断を避け易くなるおそれもありますし、国民の多数が国会や政府に広範な裁量権を認める判断をすることもあるかも知れません。

 

それでも、憲法の条規も国民の多数によって変更され得るものと考えれば、裁判所が決定を留保したときに行われる仕組みであれば、現状よりも適切な仕組みを構築できるかも知れません。

 

憲法の規範性

国の最高法規である憲法の規定には規範性があり、守られなければいけません。ところが、その規定はしばしば蔑ろにされ、規範性に弛みが生じています。

 

その弛みは多岐にわたり、「通信の秘密はこれを侵してはならない」との規定があるのに通信傍受法が作られ、その適用範囲が広げられようとしていたり、国会議員の資格について財産による差別を禁じる規定があるのに財産の供託が要求されていたりします。

 

今の国会で選挙権を付与する年齢を18歳以上にする件も、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」とする規定(成年者に選挙権を保障しているのではない)に違反しています。

 

最高裁判所には法律が憲法に違反するかしないかを決定する終審裁判所の地位が与えられています。しかし、その期待される役割や条文から逸脱していると思われる判断もあり、十分に機能してもいません。

 

憲法の規範性が弛む原因は、やはり第9条についての解釈の混乱にあると思います。「軍隊を持たないと言っているのに自衛隊がある。憲法なんて守らなくても良いんだ」という空気が、他の規定の規範性までもを弛ませてしまっているのではないでしょうか。

 

その第9条では、第二項に「国の交戦権は認めない」と明記されており、当初の解釈によると自衛戦争も放棄しています。もし、この規定を従うことで国民の安全を守ることが不可能になるのであれば、憲法全体の規範性を守るためにも改正した方が良いのかも知れません。

 

しかし、この条文で禁じられているのは「戦争」をすることで、例えば日本が武力攻撃を受けたときに攻撃国の領土を空爆したり、侵攻したりすることです。日本の領域内で攻撃国の軍隊や武装勢力に対処することは、そもそも禁じられていません。

 

条文を素直に解釈すると戦争については自衛戦争も含めて放棄していますが、攻撃国の軍隊を排除することまでは禁じられていないのです。それでも、自衛戦争も含めて戦争を放棄していると考えることに不安を感じる人も多いかも知れません。

 

ところが、これまでも実際の運用では専守防衛を謳い、武力攻撃事態にあっても「矛」の役割は安全保障条約を結んでいる米軍に任せ、日本側は「盾」の役割を果たすとされてきました。そのため、自衛隊では爆撃機などは調達されてきませんでした。

 

そして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という規定と自衛隊についても素直に解釈をすると、そもそも「陸海空軍その他の戦力」は戦争を行う軍隊を指しているのですから、盾であるなら戦闘機や戦車を装備していようとも戦力にはあたらないのです。

 

自衛隊が戦力であるかは法的な性格のことですから、見た目や大きさは関係がなく、「近代戦争を遂行し得る程度」かや「自衛のための必要最小限度の実力」かで判断しようとするのはおかしかったのです。

 

今の憲法は新憲法とも呼ばれてきましたが、実は明治憲法にあるのと同様の条文も少なくありません。例えば、旧憲法も「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ」と通信の秘密を定め、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と言論や結社の自由を定めていました。

 

小さな文言の差が結果に大きな違いを生じさせてしまうかも知れない憲法の規範性が弛んでいるとするなら、今するべきは、あれやこれやと変更できそうな条文を探し回ることでも、ひたすら条文の変更に反対をすることでもないと思うのですが、いかがでしょうか?

労働所得の格差はどこまで許される?(仮)

世界的な「21世紀の資本論」ブームは格差の議論を取り巻く空気を変えました。その分厚くて高価な本を手に入れてもいませんが、トマ・ピケティ氏は階層間の富の格差、経済成長率を上回る税引き前資本収益率、最富裕層が受け取る資本所得を指摘しているようです。実際の内容はそれらに留まらないようですが、少なくとも日本のマスメディアでは、今のところそう紹介されています。

 

しかし、「富の格差」と「生活レベルの格差」の違いには注意が必要です。金融資産等の富の大半を富裕層が所有しているとしても、生産される商品やサービスの大半は非富裕層が消費しているからです。従って、富裕層の富を抑えても、生活レベルの格差はそれほど解消されません。

 

インフレ率を除いた配当所得で贅沢な生活をしながら、相続税を含めても保有する資産を増やせる世襲型の超富裕層も存在しますが、その人たちの消費は経済全体から見れば大きくはないでしょう。彼らが政治献金等を通じて政治に影響を及ぼすことについては注意しなければなりませんが、生産物の公正な分配を論じるときに主役として扱うことは適切ではないでしょう。

 

労働所得の格差

一方、労働所得の格差は、機会の平等が確保されていれば許容されるという結論に陥りがちです。しかし、この考え方には問題があります。論点をいくつか考えてみましょう。

 

分業制の社会契約

そもそも、私たちの祖先は殆どが田畑を耕して自らが食べる作物を育て、集落の人々の相互の協力によって家を建てたり、維持していました。近現代になって分業化が進み、経済が発展しました。今日の経済的な豊かさは殆ど個人の能力によるものではなく、分業制の成果だと言って良いでしょう。

 

そうであれば、分業制の経済に参加する人々は、何を分担しているか、つまり職種に関係なく、公平な分配を受ける権利を基本的に有していると考えることができます。人々は競争で著しい不公平が生じたり、搾取されたり、貧困に陥る制度を望みはせず、より豊かになることを期待して分業制を受け入れたはずです。従って、分業制には平等な分配を条件とする社会契約が存在する考えることができるはずなのです。

 

教育の機会は全てか?

機会の平等と言ったときには、教育が機会とイコールとして語られます。しかし、実際には遺伝的な違いや就学前、及び就学中の発育環境や健康といった複雑な因子が存在します。そのため、社会的流動性のみに着目した学費の無償化等の措置のみでは、機会の平等は確保されません。

 

また、学校教育は万人に最適な方法で行われてはいません。教育サービスの質は受ける人によって違うのです。従って、教育の無償化等により形式的な機会の平等を満たしている競争条件のもとで顕れた格差を自己責任による帰結とすることはできません。

 

報酬は成果に比例するか?

実際には、労働が生産活動により成果(効用)を生じさせるものとも、労働所得が成果に比例しているとも言い切れません。現代の生産活動は多くが組織的に行われ、企業内では一般に管理職の報酬が高く設定されています。しかし、管理職が成果に貢献しているとは言えません。同様に異なる職種間にある労働所得の格差が成果に比例しているとも言えません。

 

また、収益が成果と対価の交換によって成立していないケースは珍しくありません。例えば、民放の地上波テレビ放送は莫大な効用を視聴者にもたらしていますが、その事業者は効用と比べればとても小さな額を広告企業から受けているだけです。

 

何が格差を決めているか?

労働所得の格差に関しては、非正規労働者の待遇をめぐる「同一労働、同一賃金」というフレーズがよく聞かれます。しかし、このフレーズには「違う労働、違う賃金」が前提にあります。労働者の働きに応じて賃金がいくらか違うことは、怠慢を防いだり、競争を促すために有効であるとしても、「違う職種、違う賃金」を無批判に受け入れて良いのでしょうか。

 

労働所得の格差は市場メカニズムによって調整されると考えられがちですが、実際には雇用の流動性は高くありません。特に高度な専門能力や経験が要求される職種では、その教育期間や資格者数の抑制等が調整を難しくします。

 

労働者に必要な技能レベルを高める過程は文部科学省が所管している学校教育(もとより職能訓練機関ではないとも言いますが)だけではありませんが、実際には職種による賃金の違いが学歴で決まることも多いでしょう。そのため、職種の賃金を教育当局が決めるという、不可解な構図ができてしまいます。

 

職業団体が資格取得の条件を高学歴化(大学卒や修士課程修了を条件に)しようと働きかけることも、職種・資格の階層引き上げを目的としていると考えることができるでしょう。賃金を高くするために障壁を高くするという構図です。

 

スポーツ選手の報酬

一部の芸能人やスポーツ選手は巨額の報酬を受け取ることがあります。その収益モデルは「全国民から1円ずつ貰えば1億円になる」という小学生の皮算用と似たもので、その報酬額は市場の大きさ、人口やコンテンツに興味を持つ人の割合によって全く違う額になります。ところが、経営者等の報酬が妥当かについて論じるときに、芸能人やスポーツ選手の報酬が引き合いに出されることがあります。

 

買い叩ける労働力

労働市場の流動性が高ければ正当な雇用者報酬が導き出されると思う人もいるかも知れません。しかし、流動性が極度に高い労働市場を想定すると、雇用者報酬は労働力の需給バランスによって大きく変動することになります。もし、不況によって一定の失業率があり、買い手市場の状態になっていると、雇用者報酬は際限なく減少することになります。景気の状況によって報酬が変わってしまうのであれば、その仕組みで公正な分配が確保されると言うことはできません。

 

競争の結果は正当か?

教育の機会が平等に保障された社会で、遺伝的な違いによって能力の低い人々があるとき。その人々の能力が低いからという理由で、その人々の労働力を際限なく買い叩くことを公正と言えるのでしょうか。それは異なる人種の人々を奴隷として扱うことと何が違うのでしょうか。

 

イスラム国という呼称について

シリア及びイラクの一部地域等を支配し、アブ・バクル・アル・バグダディをカリフ・指導者とするスンニ派イスラム国家として独立を宣言したIslamic Stateを名乗る武装組織ないし統治実体(ここでは某とする)の呼称について、日本では政府が独立宣言前の英名Islamic State of Iraq and the Levantの略称であるISILを使用する一方で、多くのテレビや新聞が現在彼らが名乗っているIslamic Stateの日本語訳である「イスラム国」を使用していることについて、イスラム教徒に対する偏見や嫌がらせを助長する等として、日本政府が使用するISIL、又はISIS、若しくはアラビア語による略称の読みからダーイッシュと呼ぶべきとする意見がイスラム教に関わりのある組織及び右派や左派を問わず市民に広がっています。

 

中妻じょうた板橋区議はChange.org日本版でNHK・民放連・新聞協会を宛先とする署名キャンペーンを立ち上げ、既に二千名以上が賛同

 

MX「モーニングCROSS」では「イスラム国」を卒業

 

イスラム国と呼ぶべきではないとする理由は次のように分類できるでしょう。
①イスラム教徒をイスラム国の国民というように誤解したり、イスラム教とイスラム国を混同することによって、日本に住むイスラム教徒に対する偏見や嫌がらせ、犯罪が発生するおそれがある。
②国として承認されているとの誤解を生じさせるおそれがある。
③行いが残虐・敵対的であり、敬意を示すべきではない。

 

日本が国交を結んでいない統治実体としては、台湾や北朝鮮があります。それらを中華民国や台湾国、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)と呼ばないのは、②や③の理由によるものと考えることができます。おそらく①については他に同様の問題は存在しませんでしたが、国を問わず敵対する国の国民や民族が嫌がらせを受ける等の事案は度々あります。

 

台湾や北朝鮮という呼称は支配地域が安定しているから言えるもので、某にこの様な地理的な呼称を付けることはできません。①を満たすことだけを考えれば、ISILやISISでも、ISでも良いでしょう。しかし、ISや独立宣言前の呼称であってもIslamic Stateが含まれる名称の略称であるISILやISISを②の視点から批判する人もいるはずです。

 

ダーイッシュはアラビア語での略称の読みですが、ISILやISISよりも敬意を示さない言い方として捉えられている人もいるようで、その場合は特に③の視点から支持されています。しかし、米軍がダーイッシュ呼びをしているからという理由から採用することには、政治的に中立ではない、敵対的過ぎると考える人もいるはずです。

 

同様に、政府が使用しているからという理由でISILを使用することにも否定的な人がいるはずです。報道機関が現にどのような姿勢であるかは別として、仮に政府の外交政策において反某を明確にし得るとしても、政府と同じ姿勢を報道に対して求めることは適切とは言えません。これらの否定的な考え方は報道機関と政府・軍等の関係を慎重に考えれば正当性があります。

 

一般論として、国が独立する過程では、既存の権力が独立闘争をする組織や人をテロリストと呼んだり、武装闘争をテロと言い表すことは普通のことですから、テロリストであるから国や国に準ずる組織として扱うべきではないとするのも説得力に欠けます。

 

ともあれ、絶大な影響力を持つテレビや新聞が、事情に疎い人々に誤解を与え、イスラム教徒の人々に対する嫌がらせ等を助長しかねない呼称の使用を徒に放置することは適切とは言えません。台湾や北朝鮮のように地理的な呼び方ができないのであれば、指導者の名前からバグダディ集団のような呼び方をするのが適当ではないでしょうか。

 

¶それは国か組織か

一般に、ある国がその領域内において我が国に敵対的な行い、又は自国民に非道な行いをしているときには、その政府や政権を行為の主体として扱うはずです。(内戦状態にあれば尚更で、シリアについては日本が承認している統治機構をシリアとは呼ばずにアサド政権と呼んでいたり)
その点が、某については曖昧になっています。つまり、イスラム国という呼称は、彼らは国の名前として定義しているはずですが、日本のテレビや新聞で使われるときには武装集団を指す言葉として使われているのです。

 

¶表現の自由との関係

テレビや新聞にイスラム国という呼称を使用しないように求めることは言論の自由を侵すことになると考える人もいるかも知れません。例えば、政府がISILという呼称を使用するようにテレビや新聞に命令をすれば、それは言論の自由を侵すことになります。
しかし、テレビや新聞のみが社会的に有効な言論を行うことができるという非対称化した現実において市民が修正を求めることを否定すると、言論の自由は完全にマスメディアの特権になり、国民はその自由を失うことになってしまいます。

 

言論の自由は大切な権利であり、国教を含む特定の宗教に蛮行の原因があるという意見があったとしても、私はそれを規制するべきではないと考えています。また、意見の正否を判断できるという前提に基づいて言論を規制することは避けなければなりません。イスラム国という呼称を変更するべきであるかについても、報道機関が熟慮の上でイスラム国と呼ぶべきであると判断しているのであれば、その影響によって生じた被害の責任を求めたりすることは適当ではないと思います。

 

日本を元気にする会

アントニオ猪木参議院議員を含む参議院議員5名を擁し、直接民主主義を謳う「日本を元気にする会」が結成記者会見を開きました。同党は百万人の党員獲得を目指し、年に何件かの国論を二分するような重要な議案について、インターネットを通じて党員による投票を行い、その投票割合に応じて所属議員が国会での表決を行うとしています。

 

ただ、直接民主主義の導入という点では、残念ながら期待外れのところもあり、ドイツなどの海賊党が掲げる液体民主主義と比べると幾分原始的な感もあります。液体民主主義(Liquid Democracy)は投票委任(Proxy Vote)や参加者の発議権を特徴とする直接民主主義の仕組みで、直接民主主義と間接民主主義の中間とも評されています。

 

私は日本海賊党にときどきお邪魔をさせて頂いており、一年余り前から液体民主主義を運用するサーバーソフトウェアの日本語化(機械翻訳レベル^^)や地方議会で液体民主主義の仕組みを応用する方法の提案などをさせて頂いています。2014年衆院選直前には、ドイツ選出の欧州議会ジュリア・レダ議員がソフトウェア開発者などを招いて開催した液体民主主義のイベントに日本海賊党のRioさんが招待され、その際にもサイトなどに微妙に関わっています。Rioさんによるレポートが掲載されているので是非ご覧下さい。

 

日本を元気にする会は、国政でインターネットを使った直接民主主義を導入するとしています。しかし、その対象は限定されるようで、ほとんどの議案(おそらく予算案も含めて)については、党の基本政策に賛同する議員が自らの判断で表決に参加するということのようです。ここは残念です。ただ、ほとんどの政党とは違って、党議拘束はかけないとしています。

 

いくつか疑問があります。まず、この直接投票に参加するためには党員にならなければいけないということで、政党の党員になることが一般的ではない日本では十分な数の参加者を集めることが、なかなか難しいであろうということです。参加者が少ないと、限られた政治思想を持つ人々や特定の業界に所属する人々によって「直接民主主義」が乗っ取られてしまうおそれがあります。

 

その点では、投票にかけられる議案が何であるか分からないことや件数の少なさが、参加動機を弱めてしまうことも考えられます。つまり、関心のある分野に関する投票ができずに、投票したい法案の表決が議員の自由意思によって行われるのであれば、党員になるメリットがないということです。党員から党費を取ると、百万人という目標は難しいのではないでしょうか。

 

逆に党費をとらないと、参加を希望する人が選挙権を持つ本人なのかを確認する必要があるので、その百万人分の名簿を管理したり、システムを運用したりするコストを考えなければなりません。尤も、所属議員5名の要件を満たしている現状では政党助成金が十分に出るので、それ以外の費用を抑えれば捻出できるはずですが。

 

党員による投票にかける件数はわずかとしていますが、何を投票にかけるかを誰が、どのように判断するのかという問題もあります。基本政策に賛成できない人の参加を見込むことはかなり難しいと考えられるので、(政治思想を持つ)政党が党内民主主義を強化するために党員を使うという構図になってしまうおそれもあります。

 

投票結果を票決に反映させる方法については、割合投票としています。総取り方式にしないことは少数派の参加動機を維持するために重要です。私が地方議会に液体民主主義を活用する方法を検討したときには、同様の割合投票か、又は予め他の会派・議員による賛否を見込んで、投票結果と議会の議決の結果(賛否の割合)が近くなるように行動する方法を考え、議員数が1人でも可能な後者を選びました。

 

企業経営者は政治家に最適か?

話が少しズレますが、松田公太代表兼幹事長と山田太郎政調会長兼幹事長代理が企業経営の経験があったということもあるのでしょう、落選しても困らない人が議員をやらなければいけないと言っていた点については触れなければなりません。職業政治家が利権の温床であるという批判のようで、一瞬ティーパーティーが頭をよぎりました。お金持ちの政治家は悪いことをしないという古びた考え方にも似ています。

 

しかし、言い方を変えれば落選しても困らない人は好き放題やってしまうということになります。これは民意を尊重する直接民主主義とは全く逆です。国会議員の選挙は私たちが代表者を選ぶ方法で、議員が国民の代表者であり続けさせるものです。有り体に言えば、再選という餌を使うことで任期中に国民を裏切って自己の経済的利益のために活動したり、怠けたりしてしまうことを防いでいるのです。そうでなければ、任期を区切って頻繁に選挙をする必要はないわけです。つまり、一度選挙で選ばれたら終身議員ですよとすれば、落選を気にせずに議員活動を出来る、それで結構という話になります。

 

私も、現状では国政について直接民主主義的な手法、液体民主主義を政党・議員が導入する試みはあって良いと思いますし、たぶんその方がより民主的な仕組みになると思います。ただ、憲法が想定している代表制は、それよりも望ましい仕組みだと思います。つまり、国民にとって真の代表者たちが、私たちの代わりに国会で熟議をして政治を行う仕組みです。

 

もちろん期待しています

おそらく基本政策に出てくる政策の大半は、私の考えとは違うと思います。経営者や実務家で構成するという考え方も、直接民主主義を掲げている点とは矛盾していると言わざるを得ません。批判をしだせばいくらでもできます。それでも、直接民主主義を掲げたことで人々からのプレッシャーを受けて、これから進化する可能性に期待をしています。

 

お年寄りに無料のネット接続を

先頃、郵便局がMVNOに参入するというニュースがありました。MVNOというのはプロバイダや専業事業者がNTTドコモやauなどの携帯電話会社が保有・運用する通信網を借りて提供する通信サービスのことで、比較的低額で通信サービスを利用することができます。

 

日本でブロードバンドインターネットの普及が始まってから十年以上が経ちましたが、世帯普及率は十分とは言えません。PCやタブレット端末の価格は安くなりましたが、高齢者の二人又は単身の世帯では回線契約がネックになっています。

 

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ネット普及率が100%になると、年間約1兆円以上の郵便(封書・はがき)や新聞の印刷・配達を省くことができます。文書を配布するときに印刷物のことを考える必要がなければ、色や効果を使ったり、双方向性を実現することも簡単にできます。

 

無料のインターネット接続を

電子メールとは違う規格・フォーマット・仕組みの新たな郵便を考えてみましょう。送信は52円~82円の有料で、ダイレクトメールには割引があります。バックアップとセキュリティがあり、請求書や明細書も送れます。アドレスは住所と名前に紐付けされ、住所と名前を宛先にして送れます。

 

このような仕組みを使えば、郵便を代替し、その売り上げで通信料金を賄うことができます。例えば、1週間に封書と葉書を2通ずつ受け取ると、受け取る郵便物の郵便料金は月に一千円を超えます。MVNOのデータ通信プランなら、その料金で2GBの高速通信を利用できます。

 

今あるものを活用

携帯通信の基地局が空いている時間帯を利用できれば、固定インターネット接続のない世帯でもビデオレ―ターなどの大きなサイズのファイルを送受信できるようになります。 設備の新設や増強をしなくても新しいサービスを提供できるようになるのです。

 

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高価な携帯通信インフラ、最大限に活用するには?

 

携帯電話通信網を使うためには、3G/LTE通信機能付きの端末、又は端末の他に3G/LTE-WiFiルーターやデータカードが必要です。ルーターやデータカードは五千円程度からありますが、テザリング機能付きの携帯電話・スマートフォンが更新期に入っているので、それらをルーターとして再利用することもできます。

 

郵便からの撤退

近い将来に郵便が独立した事業として成立しなくなることは明らかです。円滑に撤退できなければ、郵便事業を維持する費用を政府が負担することになります。

 

コミュニティーメールボックス(カナダでは近い将来、郵便の個別配達が廃止される)

 

手紙や葉書は宅配便で配達されるようにります。その流れは、郵便事業を民営化しても止めることはできません。円滑に撤退するためには、すべての人々が信頼できる代替通信手段に接続する必要があります。

 

選挙、もっと安くできないの?

国会議員の選挙を行うための経費のほとんどは、法律に基づいて実際に選挙事務を行う地方自治体に対して国から委託費として支払われています。今回の衆院選は632億円(閣議決定額)を予備費から使用して行われました。有権者数は約1億人、投票率は52.26%なので、投票者あたりの予算は約1,160円でした。

 

¥1,160 /

 

閣議決定された予算の全額が使われるわけではないとしても、投票者あたり一千円は下らないはずです。投票の前に投票所入場券や選挙公報を受け取りますが、世帯単位なので投票所入場券は26円(後出財務省資料)、選挙公報と合わせても100円は掛からないはずです。

 

投票箱に入れるのは小選挙区、比例代表、最高裁判所裁判官国民審査の小さな紙3枚です。投票用紙1枚あたり300円も掛かっている計算になります。

 

小選挙区
三百円
比例代表
三百円
国民審査
三百円

 

財務省の資料によると平成19年参院選では委託費が526億円、うち197億円が投票所、58億円が開票所、期日前投票経費が26億円、事務費が135億円、その他(ポスター掲示場費、選挙公報発行費、調整費等)が110億円となっています。

 

委託費以外に、衆議院選挙では候補者が費用負担をせずに出せる新聞広告や法定ハガキで50億円ほどが支出されます。

 

(参院選の委託費+衆院選での委託費以外の執行経費)

 

今回の選挙では投票所がおよそ4万8千箇所とのことなので、一つの投票所に40万円もかかっている計算になります。施設の多くは費用弁償の必要もない学校で、投票日は1日だけです。

 

会計検査院の指摘によると、投票所あたりの配置人数は平均8人で、平均従務時間は13.5時間、投票所あたりの合計従務時間は108時間ですから、投票所の経費は従務時間あたりで約3,700円という計算になります。ほとんどは超過勤務手当です。

 

投票の不正予防

インターネットからの投票を実現できれば、選挙執行経費は大幅に削減できるでしょう。しかし、投票には秘密投票と投票の任意性、本人性を確保することが要求されます。ネット投票では、これらを満たすことは難しいでしょう。

 

投票の秘密を確保することは、投票の任意性を確保するためにも重要です。会社や宗教団体が特定候補への投票を強制することがないように、投票の秘密は厳しく守られていなければいけないのです。

 

ただ、今の投票所がこれらを十分に満たせているとは言い切れないことも事実です。記名式で記載台が完全には囲われていないので、投票の秘密も十分に確保できてはいません。投票所での本人確認が十分ではないという指摘もあります。

 

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他の国での選挙では、投票箱が透明だったり、投票した人の指にインクを付けて多重投票を防いだり、記載台が布などで覆われていたりします。

 

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もっと安くできないの?

会計検査院は投票所の経費について、法律による基準額が実際の経費と比べて過大であることを指摘しています。投票所で用紙を渡したりする係を高校生のアルバイトにしてもらうだけでも100億円くらいは安くなるはずです。

 

海外ではタッチパネル式の電子投票が使われているところもあります。開票だけではなく、投票用紙を渡す係の人も省けます。

 

 

投票の秘密を確保するために記載台を覆うと、投票用紙を持ち帰って他の人に譲渡されるおそれが生じます。投票箱にシートフィード装置を付ければ、持ち帰られた投票用紙を使って複数の投票をすることも防げそうです。(入場の段階で本人確認をできれいれば)

 

 

今でも投票済みかを確認する作業にパソコン、投票用紙の発券にも機械が使われていますから、投票所入場券から投票用紙を発券する作業を無人化・ワンマン化することは難しくなさそうです。投票所をスマートにして数を増やすことができれば、投票者の機会費用を減らすことができます。

 

本人確認の方法

ある人が誰なのかを確認することは、実はかなり難しいことです。本人性と匿名性の境界は入場時ということになるはずですが、投票所入場券を持っていれば「なりすまし」ができてしまいます。写真付きの身分証明書は誰もが持っているものではありませんし、公的な身分証明書として重要な健康保険証は一時的に譲渡又は盗用されるおそれがあります。

 

選挙人名簿は住民登録を元に作られるので、郵送される投票所入場券は選挙のたびに選挙人に対して身分証明書を発行しているものと考えることができます。でも、郵便事故や郵便受けから盗まれる可能性があります。そのときに無効化と再発行をする手続きが行われなければ、なりすましは防げません。手続きが存在しても実際に行われることを期待できなければ効果は薄く、故意の譲渡を防ぐこともできません。

 

おそらく、写真などの生体情報付き身分証明書をすべての有権者が取得するという方法が一番確かな方法です。もちろん、その身分証明書が投票専用であっては、譲渡されてしまう可能性を排除できません。

 

本人確認が確かにできて、設備によって他者による干渉や執行者の不正を防ぐことができれば、投票所に多数の係員や立会人を配置する必要はなくなります。ただ、本人確認は現状でも十分ではありません。

 

インターネット投票で技術的な脆弱性やタッチパネルの誤作動を心配しなくて良いとするなら、布で覆われたブースの中に一つの電子端末があるだけで良いのです。

 

代議投票のススメ

近頃の選挙で有権者は、政党の政権公約・マニフェストを読み、政策で投票先を選ぶことを要求されています。「政策本位の選挙」と呼ばれるものです。しかし、実際には公約を読み比べたりする人はほとんどいないと思います。

 

そもそも、有権者が公約に記された政策が正しいかどうか、実現できるかどうかを判断することは難しいはずです。政策を精査することはできないので、テレビや新聞の影響を受けて投票してしまうことになります。しかし、テレビや新聞も、政策が正しいか、実現できるかどうかを判断することはできません。有権者とテレビや新聞の利害・需要が一致しているとも限りません。

 

政策を約束して選ばれた議員は、国会で熟議をして結論を導き出すことよりも、公約に記した政策を行うことを求められてしまいます。しかし、有権者は政策を十分に理解し、比較して投票してはいません。

 

本来の仕組み

実は、政策本位の選挙は、憲法に記されている仕組みとは違います。憲法には前文の一番最初に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」と書かれています。

 

一般の国民を代表できる人を国会議員に選べば、国会に全国民の縮図ができ、そこで議論をすることで国民が議論をしたときに近い判断をするであろうという、代表制・代議制を採っているのです。これなら、選挙のときに候補者の政策を隅から隅まで読む必要はありませんし、「選挙のときだけの主権者」にもなりません。

 

それなのに、肩書きや経歴が華々しい立派な人、特別な人に投票しなければならないという、少しおかしな認識が広まってしまっています。しかも、政策で政党・候補者を選べという無茶ぶりがされています。結果、すごくおかしな仕組みになってしまっているのです。

 

民衆による政治

リンカーンの演説で有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉は、憲法の前文にも次のような表現で移植されています。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 

日本では1925年に普通選挙制が導入されました。収入や財産で選挙権を差別しないようにすることです。普通選挙は「Popular Election」の和訳ですが、民衆選挙と表した方が適切だと思います。憲法前文にある「国民」も「民衆」と読み替えると分かりやすくなると思います。

 

党議拘束もあるけれど

残念なことに今は、民衆の代表者らしい人を選んでも、政党に所属している議員が自由に法案への賛否を決めることはできません。ほとんどの政党が所属議員の表決に「党議拘束」をかけているからです。

 

しかし、有権者が意識的に、より民衆の代表者らしい人を選んだり、党議拘束のない政党や無所属の候補を選んでいけば、日本の政治制度を少しずつ修復することができるはずです。